安岐城 黒田如水の豊後侵攻の舞台
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安岐城 黒田如水の豊後侵攻の舞台
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住所
大分県国東市安岐町下原字古城
地形
国東半島南東部、安岐川河口左岸の標高約15m、周辺低地からの比高約10m前後と推定される台地上に築かれた平城です。
城の北側は谷、東側から南側にかけては海や安岐川に面した崖となっており、天然の地形を利用した防御力の高い立地でした。
現在では海岸線や河川の形状が変化していますが、築城当時には河口付近の水運と陸上交通を監視できる場所だったと考えられます。
築城とその後の歴史
安岐城は応永年間(1394~1428年)、豊後守護大友氏の一族である田原親幸によって築かれたと伝えられています。
田原氏は国東半島に勢力を持つ有力な国人領主であり、大友氏の一族として豊後東部の支配に重要な役割を果たしました。
戦国時代には大友氏の勢力拡大とともに城の重要性も高まり、国東半島南部を押さえる拠点として機能しました。
天正年間には島津氏の豊後侵攻などによって大友氏の支配が揺らぎ、安岐城も戦乱の影響を受けます。
文禄2年(1593年)、大友義統が改易されると、豊後は豊臣秀吉の家臣たちに再配分されました。安岐城には熊谷直盛が入り、城の改修を行ったとされています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、熊谷直盛は西軍に属しました。一方、中津城の黒田如水は九州で軍事行動を開始し、豊後各地の城を攻略していきます。
安岐城も黒田軍の攻撃を受け、落城したと伝えられています。こうして安岐城は黒田如水による豊後侵攻の舞台となりました。
その後、江戸幕府による一国一城令などの城郭統制が進む中で、城としての役割を失っていきました。
縄張等
安岐城は低い台地の上に曲輪を配置し、周囲に土塁や堀を設けた城です。
現在の周辺には「本丸」「天守」「小丸」「内堀」「南堀」「北堀」「門口」などの地名が残っており、城域の構造を推定することができます。
特に本丸周辺では発掘調査が実施され、15世紀後半から17世紀初頭までの城郭の変遷が明らかにされています。大きく三つの時期に分けられる遺構が確認されており、中世城館から近世城郭へと変化していく過程を知ることができます。
一方、道路建設や住宅地の造成によって多くの部分が失われました。しかし、畑地や山林には現在も土塁や空堀が残されています。
現地では城の周囲にある段差、土塁、堀跡などを確認すると、安岐川と海を防御に利用した城の姿が理解できます。
アクセス
大分空港から車で約10分。国東市安岐町下原、国道213号付近に位置します。
住宅地や農地が多く、城跡専用の見学施設は限られています。遺構の観察には30~45分程度が目安ですが、私有地への立ち入りには注意が必要です。