昭和三十三年、村じゅうの台所に声を届けた十九歳。台風の夜、線が切れるまで
ふつうの人の一生
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昭和三十三年、村じゅうの台所に声を届けた十九歳。台風の夜、線が切れるまで
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「放送は、慌てないこと」
十九歳のサヨが、初めての日に教わった言葉です。
村は、こっちの声の分だけ慌てる。だから、低く、ゆっくり読む。
昭和三十三年、伊豆の山あいの村。
家は七十軒ほど。電話のある家は、ほとんどありません。
そのかわり、どの家も柱に小さな木の箱がついていました。
有線放送電話です。
農協が電柱を立て、村の中だけに一本の線を張る。
朝と夕方には、その線から放送が流れます。
同じ線で、家と家が話すこともできました。
放送室には交換台があり、札が落ちるたびにプラグを差します。
昭和三十年ごろから、こうした線は全国の山村や漁村に広がりました。
昭和三十二年には法律もできています。
ただし、国の電話の網につなぐことは禁じられていました。
つまり、村の線は、村までです。
サヨの仕事は、六時の放送から始まります。
天気、農協の知らせ、米の値。
それから、逃げた牛、橋のそばに落ちていた子どもの下駄、
葬式の時間と、生まれた子の知らせ。
読んだことは、全部帳面に書き残します。
線は一本なので、話は漏れます。
放送してほしい、と頼まれて、断ることもありました。
箱から出た言葉は、取り消せないからです。
そして九月二十六日。
朝から降りつづけた雨が、夜になって川の音を変えました。
谷のいちばん上には、線の行っていない十二軒があります。
サヨはマイクを入れ、下の家の人に向かって話しました。
すぐに、上がって知らせてください、と。
十一時四十分。
上の集落に向けて話している途中で、声が途中で消えました。
線が切れたのです。
この台風は、のちに狩野川台風と呼ばれます。
伊豆の山では、一日に七百ミリを超える雨が降りました。
死者と行方不明は、合わせて千二百人を超えています。
狩野川の流域だけで、八百人以上でした。
声は、半分の家にしか届きませんでした。
それでも、届いた家から人が走り、戸を叩き、人が山を上がりました。
声が届くのは、そこまでです。
そこから先は、人が運ぶのです。
名前は、どこにも残っていません。
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この動画は、当時の制度・統計・災害記録をもとに、
有線放送の放送室にいた一人の娘の一年を物語として再構成したものです。
村と登場人物は特定の個人ではありません。
年代・制度・台風の記録は資料に基づいています。
動画が面白かったら、高評価とチャンネル登録をお願いします。
それでは、また次の人生でお会いしましょう。
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