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『自分は鬼か」家族焼いた14歳少年の原爆 溶けていく姉と弟のはらわた…感情麻痺と生き残った責任【長崎被爆証言アーカイブ】

NBC長崎放送

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『自分は鬼か」家族焼いた14歳少年の原爆 溶けていく姉と弟のはらわた…感情麻痺と生き残った責任【長崎被爆証言アーカイブ】

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被爆から81年を迎えた長崎。当時、幼い姉弟を自分の手で焼き、母も父も失った14歳の少年。「涙ひとつこぼさなかったよ…それが後で考えると悲しかったね」極限状態に置かれた人間はどうなるのか、その後をどう生きたのか、貴重証言です。「たかしちゃんが息しなくなった」1945年8月9日。当時14歳だった山田拓民さんは、爆心地から3.3キロ離れた県立中学校で被爆しました。大きなけがはなく、爆心地からわずか800メートルの城山町にあった自宅へ帰宅。近所の防空壕で母と姉、弟2人に再会しました。「12日に突然母が、まだ生まれて9か月ぐらいの弟のたかしちゃんが『息しなくなった!』って大きい声を出したもんですから。行ってみたら、ほんとに呼吸が止まってるんですね。心臓は動いてたんですよ。医者に連れて行くこともできないし、せいぜい『たかしちゃん』って肩を揺するぐらいでね、そのまま心臓が止まっていきました」目が覚めたら姉も冷たくなっていた「その晩は、母が弟を抱いて体をくっつけ合って地面にゴロッとなって寝るだけですからね。暗くなりゃ寝ると。しかしね、三晩、四晩ぐらいまで外は明るいんですよ。火がね、あっちこっちで燃えてる、そういう中で寝て。翌朝、四日目の朝、13日の朝ですね、目が覚めたら、姉が冷たくなってたんですよ」「肉が溶ける、はらわたが溶ける」炎のなかの遺体姉と弟を自らの手で焼いた山田さん。その作業は、耐え難いものでした。「もう、逃げ出したくってしょうがないような作業でした。着てるものは燃えても炎の中で肉が溶ける…、はらわたが溶ける…もうじっと見ておれないんですよね。しかも炎の中で死体は動く…」「ずっと後になって考えて、ほんとに母はつらかっただろうなあと。悲しいなんていう言葉じゃ表せないような、気が狂うような気持ちで母は火のそばにいたんじゃないかって思いましてね。そんな耐えられないような思いをした母だったんですけども…」母親も死んだ…もう一人の弟も死んだ…「自分は鬼」母もまた、原爆の放射線障害に蝕まれていきました。「弟と姉を焼いた十日目、8月23日には母も死んでいくんですね。当時としてはよく見る光景でした…歯ぐきなんかから出血しましてね。体を見ると斑点が出てくる。もうこうなると、何日ももたんですから…その通りになっていきました」次々と家族を失う中で、山田さんの心は麻痺していきました。「私はね、母が死んだときも涙は出なかったんですよ。『やっぱり死んだか』と。そして翌日、弟も死んでいくんですね…。母と姉弟を焼いて、涙ひとつこぼさなかったっていうのはね…やっぱり鬼だろうと。それこそ遺体に取りすがって泣くのが当たり前だろうと思うんやけど、その時はそういう気持ちにならなかったんよ。『お母さんも死んだか』って。非常に客観的な感じだよね。そのことがね、後になっては悲しかったのよ」父親はあと何日もつか…母、姉、弟2人を被爆から1カ月で次々に失った山田さん。その後、重傷を負った父親とも再会したものの瀕死の重傷を負っていました。「見た途端に、あと何日もつかなあというのが率直な気持ちだった…前は大やけどだし、背中のほうは大けがだしっていうね…」奇跡的に命を取り留めた父親でしたが16年後にがんで亡くなりました。「生き残ってよかったじゃなくって…僕には僕の責任があると。それが僕の支えになってるし。生涯を終えるときにね、『俺なりにやってきた』って思いながら終わるような、これからを送りたいと思ってるんですね」2016年まで長崎被災協で33年に渡って事務局長をつとめた山田拓民さん。2021年6月肺炎のため90歳で亡くなりました。 詳細は NEWS DIG でも!↓ https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/...