【立花宗茂の子孫】関ヶ原でゼロ、二十年後に唯一の復帰…柳川立花家のその後
世界史歴史アーカイブ
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【立花宗茂の子孫】関ヶ原でゼロ、二十年後に唯一の復帰…柳川立花家のその後
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立花宗茂の子孫は、いまどこにいるのか。
慶長五年、筑後柳川十三万石の大名・立花宗茂は、関ヶ原で西軍につき、すべてを失いました。三十三歳でした。
関ヶ原で改易された大名はおよそ九十家。そのうち同じ土地に大名として戻れたのは、この家ただ一つです。
七歳の女の子・誾千代が城主になったところから始まった家は、父を二人失い、国を失い、伯爵の肩書きを失い、そのたびに立ち上がりました。
そしていま、殿様の屋敷は旅館になり、十八代目の当主が客を迎えています。
鍵は、この家に四百年伝わる一振りの刀「雷切」にあります。
三度ゼロになって、三度戻ってきた家。柳川立花家四百五十年のその後を、一本でたどります。
▼この動画でわかること
・天正三年、七歳の誾千代が立花山城の城主になった「譲り状」がいまも残っていること
・立花道雪が輿に乗って三十七回戦った理由と、刀「雷切」の名の由来
・岩屋城で七百六十三人が全滅し、島津が四千五百人を失った十四日間
・二十歳の宗茂が秀吉から「鎮西一」と呼ばれ、二十一歳で柳川の大名になった経緯
・「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言われた碧蹄館の戦い
・関ヶ原の日に大津城を落としながら、本戦に間に合わなかった理由
・父の仇・島津義弘を討たず、逆に護衛して九州へ帰った話
・鍋島三万二千に囲まれ、加藤清正の説得で城を開けた十月二十五日
・誾千代が女たちに鉄砲を持たせて清正を待ち構えたという伝承
・京都で浪人した三年と、三十四歳で亡くなった誾千代の墓「ぼた餅さん」
・本多忠勝が世話をし、家康・秀忠に召し出されて棚倉一万石になるまで
・大坂の陣で秀忠に伝えた予測が、すべて的中した話
・元和六年、柳川十万九千石への復帰が「関ヶ原の負け組で唯一」だったこと
・島原の乱に七十一歳で出陣し、七十六歳で子を残さず亡くなった宗茂
・柳川藩十二代、伯爵、そして昭和二十二年に華族でなくなった日
・十六代・和雄と文子が、殿様の屋敷を旅館「御花」として開いた昭和二十五年五月三十日
・国の名勝「立花氏庭園」と立花家史料館の三万点、そして十八代・千月香のいま
▼チャプター
0:00 冒頭 すべてを失った大名
1:00 一振りの刀
1:59 第1章 七歳の城主と、二人の父
7:04 第2章 十三万石が、ゼロになった日
11:43 第3章 稲妻を切った刀
17:07 第4章 殿様が、旅館を始めた日
21:01 第5章 稲妻を切った刀は、いま
24:00 エンディング
▼関連する回
・山内一豊の子孫|跡継ぎゼロの六万石が二十万石へ ― 関ヶ原で「戦わずに国をもらった側」の話
・大谷吉継の子孫|首は敵が隠し、孫は敵が育てた ― 同じ日に関ヶ原で散った盟友
・長宗我部家の子孫|四国九十万石が十五年でゼロに ― 同じ負け組で、戻れなかった家
※石高・年代・人数、および系図の細部には諸説があります。本動画は一般的な史書と通説をもとに構成しています。
※「雷切」の由来、「敗軍を討つは武士の誉れにあらず」、誾千代の鉄砲の話などは、確かな一次史料に残るものではなく、後世に語り継がれた伝承・一説として扱っています。
※現在の当主の代数、および御花・立花家史料館の運営については断定を避け、公表されている内容をもとに紹介しています。
※本動画では一部にAI生成画像を使用しています。史実の情景を分かりやすくお伝えするためのイメージであり、実際の記録映像ではありません。ナレーションはAI音声です。
※無断転載禁止
#立花宗茂 #立花誾千代 #関ヶ原の戦い #日本史 #歴史解説