織田信長が本能寺の炎の中で本音を歌ってみた。 〜孤高の炎〜
レキチューン! -歴史上のあの人が本音で歌ってみた-
0:00 / 0:00
織田信長が本能寺の炎の中で本音を歌ってみた。 〜孤高の炎〜
5 254 просмотра · 2 дн. назад
レキチューン! -歴史上のあの人が本音で歌ってみた-
10,8 тыс. подписчиков
5 254 просмотра · 2 дн. назад
『レキチューン!』歴史の教科書のあの人が、本音を歌ってみた。
今回は織田信長「孤高の炎」(AI Music Video)。
▼次に歌わせたい歴史人物をコメントで募集中!
リクエストはいつでも大歓迎です!
時間や費用との兼ね合いから、すべてのご希望にお応えしたり、制作時期をお約束したりすることはできない点を、あらかじめご了承ください。
ご支援くださっている方からのリクエストは、これからの企画で優先して検討させていただきます。
※本MVは歴史上の人物や伝承をもとに、独自の解釈・脚色を加えて制作しています。歌詞や映像の元ネタ、史実との違いは以下の補足をご覧ください。
【MV補足:史実×作品の元ネタ(※一部脚色)】
【人物概要】
織田信長は、1534–1582年を生きた尾張(現在の愛知県西部)の戦国大名です。若い頃は周囲から「大うつけ」と呼ばれましたが、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破りました。美濃を攻略して岐阜を拠点とし、1568年には足利義昭を奉じて京都へ上ります。浅井・朝倉氏、比叡山延暦寺、各地の一向一揆などと戦いを繰り広げ、安土城を築いて天下統一へ迫りましたが、1582年に家臣の明智光秀に本能寺で討たれました。享年49(数え年)です。本作では、父の葬儀から本能寺の炎までの生涯をたどり、「魔王」と呼ばれながら、裏切られるたびに人を信じることをためらい、それでも信じたかった信長像を描きました。
【時代背景】
信長が生きたのは、応仁の乱(1467年〜)ののち室町幕府の力が弱まり、戦国時代へと突入した動乱の世です。延暦寺・本願寺などの大寺社も、所領と武力を持つ一大勢力でした。一方で、1543年頃の鉄砲伝来や1549年のザビエルによるキリスト教伝来など、南蛮貿易の始まりとともに海の向こうから新たな技術や文化がもたらされていました。古い権威と、海の向こうの新しい文化が交わる時代でした。
・「うつけ者と嘲笑うなら 笑えばいいさ」:
家臣・太田牛一が記した『信長公記』には、若い信長の姿として、明衣(ゆかたびら)の袖を外す、半袴に火打袋を下げ、茶筅髷を紅・萌黄の糸で巻き、朱鞘の太刀を差し、町中で瓜にかぶりつき、人の肩にぶら下がって歩くといった異様な様子が描かれ、人々は「大うつけ」としか言わなかったと記録されています。しかし同じ記述には、朝夕の馬の稽古、春から秋の水練、弓・鉄砲・兵法の稽古に励み、槍は短くては悪いと長柄に改めさせたという、真剣な鍛錬や工夫の数々も記されていました。父・信秀の葬儀では、弟・信勝が折り目正しい肩衣袴を着けていたのに対し、信長は柄の長い太刀と脇差を縄で巻き、袴も着けず、抹香をつかんで仏前へ投げつけたといいます。参列者が眉をひそめる中、筑紫から来た僧だけが「あれこそ国は持つ人よ」と評したという話も伝わっています。MVの冒頭はこの葬儀の場面がもとになっており、世間からうつけ者と嘲笑われながらも己の信じる道を進む若き信長の姿を描きました。
・「南蛮渡来のビロードを纏い/見据える先は 遥か海の向こう」:
フロイスの『日本史』には、フロイスが鏡・孔雀の尾などとともに黒いビロードの帽子を差し出した際、信長はその帽子だけを受け取ったという出来事が記されています。また『信長公記』によれば、1581年の安土の左義長で信長は「黒き南蛮笠」をかぶって登場したと記録されています。海の向こうの品を身に着ける好奇心を、歌詞とMVではビロードのマントを纏う姿として表しました。
・「奇襲の雨 桶狭間」:
『信長公記』には、急な雨が石や氷を投げつけるように今川方の顔へ打ちつけ、楠の大木が倒れたという桶狭間の戦いの天候が克明に描かれています。雨が上がると信長自ら槍を取って攻めかかり、まず服部小平太が義元に斬りかかったものの、逆に膝を斬られて倒れ、続いて毛利新介が義元を斬り伏せて首を取ったと記されています。山を迂回した「奇襲」という見方は明治の参謀本部『日本戦史』などで広まったものですが、藤本正行氏らの研究から、現在は正面から本陣へ攻めかかった説が有力とされています。MVでは、泥に倒れた今川の旗や雨上がりに掲げた首の場面で、この戦いを描きました。
・「天下布武 ただ一つ 刃に誓う」:
信長が用いた「天下布武」の印は、美濃攻略後の1567年11月頃から使用されました。当時の「天下」という言葉は、将軍を中心とする京都周辺の五畿内を指すという研究があります。また「武」についても、中国の「七徳の武」に由来する、為政者の徳を表す言葉とする解釈があります。歌詞では、この言葉を天下を目指す誓いとして捉え、自らの刃に重ねる姿を描きました。
・「俺は孤高の魔王でいい」:
フロイスの1573年の書簡には、信玄が「天台座主沙門信玄」と署名した書状を送り、信長は「第六天魔王信長」と署名して返したというエピソードが記されています。信長の書状そのものは残っておらず宣教師の伝聞によるものですが、それでも「魔王」は今も信長の象徴的な呼び名として語り継がれています。歌詞では、周囲に恐れられ孤立しながらも、その呼び名さえ引き受けて突き進む信長の覚悟として歌わせました。
・「比叡の山を 紅蓮に染めて」:
1571年9月の比叡山攻めについて、『信長公記』には、根本中堂・山王二十一社をはじめ堂舎も経巻も残らず焼き払い、僧も俗人も子どもも討ったと記されています。しかし、兼康保明氏(1981年)の考古学的な再検討によると、この時期に焼けたことが明確なのは根本中堂と大講堂の跡だけで、ほかの焼土層の多くは焼き討ち以前と考えられました。このように、記録と土の中の痕跡の両方から、その規模が今も検討されています。MVでは、夜の山を焼く炎の情景として描きました。
・「鳴かぬなら 斬り捨てて進むだけ」:
「鳴かぬなら殺してしまへ時鳥」という句は、江戸後期の平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』に、三人(信長・秀吉・家康)に託した句として載せられたものです。同書には、人が三人になぞらえて作ったものだろうと添えられており、信長本人の句ではありません。没後200年以上たっても語り継がれた信長像を、歌詞では立ちはだかるものを斬り捨てて進む言葉として描きました。
・「盃を交わしても 信じても/お市の涙に 朝倉の影」:
信長の妹・お市は北近江の浅井長政に嫁ぎましたが(婚姻年は諸説あります)、1570年に信長が越前の朝倉氏を攻めると、長政は朝倉方へつきました。『信長公記』によれば、信長は、浅井は縁者で江北一円も任せており不足はないはずだと、初めは裏切りの報を「虚説」と考えたといいます。しかし方々から事実との報告が続き、信長は「是非に及ばず」と述べて撤退しました。お市が両端を縛った小豆袋で危険を知らせた話は、後世の『朝倉家記』に見える伝承です。MVでは割れる盃で同盟の崩壊を表し、信じていた者に背かれた信長の痛みを歌詞と映像に重ねて描きました。
・「信じて 信じて 裏切りを飲み込め」:
金ヶ崎から約2か月後の1570年6月28日、信長は徳川家康とともに近江の姉川で浅井・朝倉軍と戦いました。『信長公記』によると、朝倉孫三郎(景健)が率いる8,000ほどに浅井勢5,000ほどが加わり、敵は合わせて1万3,000ほど。夜明けに姉川を挟んで、西の三田村口には家康が、東の野村には信長の馬廻や美濃三人衆が向かいました。両軍入り乱れ、「しのぎをけづり、鍔をわり」というほどの激戦の末に、織田・徳川方が敵を追い崩します。討ち取った首は千百余り。浅井方の遠藤喜右衛門の首は、かねてから「この首を取る」と言い放っていた竹中久作が取りました。それでも浅井氏はすぐには滅びず、小谷城が落ちたのは3年後の1573年です。長政は自害し、お市と三人の娘は織田方に引き取られました。MVでは、サビに合わせて浅瀬でぶつかる両軍や馬上で采配を振る信長、続く小谷城の炎上とお市の姿で、この戦いと同盟の結末を描きました。
・「信じきれずに それでも背中を預ける」:
1578年に荒木村重の謀反の知らせが入った際、『信長公記』によれば、信長は「不実」(本当ではないだろう)と考え、何が不足か、望みがあれば申し出よと使者を送りました。その使者の一人が惟任日向守、つまり明智光秀でした。浅井の離反を経験したあとでも、信長はすぐには謀反と決めつけなかったのです。MVでは居並ぶ家臣の中に光秀を置き、疑いながらも背中を預ける信長の葛藤を描きました。
・間奏の安土城:
1576年正月に築城開始され、1579年に信長が天主へ移った安土城について、『信長公記』には、最上階の座敷は内も外も「皆金」であり、狩野永徳に絵を描かせたと記されています。しかし、天主を中心とした主郭部は本能寺の変の後に焼失してしまいました。MVの間奏で燭台を灯す小姓は、本能寺で最期まで仕えた森乱(蘭丸)をモデルとしており、黄金に輝く栄華の頂点と、その先に待つ滅びの影を重ねて描きました。
・「人間五十年 下天の内をくらぶれば/夢幻の如くなり」:
この言葉は能ではなく幸若舞『敦盛』の一節であり、人の世の五十年も、天上の時の流れに比べれば夢幻のようにはかない、という意味を持っています。『信長公記』で信長が舞ったのは桶狭間へ出陣する前でしたが、MVでは本能寺の前夜へ移し、生涯の最初と最後を同じ舞でつなぐ演出として歌詞に合わせました。
・「是非に及ばず 光秀 なぜお前が」:
1582年6月2日未明の本能寺において、信長が「いかなる者の企てぞ」と問い、森乱が「明智が者と見え申し候」と答えると、信長は「是非に及ばず」と言ったと伝えられます。これは金ヶ崎で浅井の離反を受け入れた時と同じ言葉でした。光秀が背いた理由は今も分かっていませんが、2014年に林原美術館と岡山県立博物館が公表した「石谷家文書」が、長宗我部氏をめぐる四国政策との関係を考える手掛かりとして注目されています。歌詞では、諦念とともに、最後まで信じたかった光秀への思いを叫ぶ信長の心情として描きました。
・「燃え落ちる 本能寺 敦盛を舞う」:
『信長公記』に記された信長の最期は、弓で応戦し、弦が切れると槍で戦って肘に傷を負い、そばの女たちに逃げるよう命じると、殿中の奥へ入り納戸の口を閉ざして自害したと伝えられます。MVで弓を引く場面や、手傷を負って奥へ去る姿はこの記述をもとにしています。なお、演出と編集の都合上、MVでは槍ではなく刀を手に戦う姿にしました。
・「…それでも 俺は 信じたかった」:
本能寺の変の際、羽柴秀吉は備中高松城(岡山県)を攻めていました。知らせを受けた秀吉は「中国大返し」で戻り、山崎の戦いで光秀を破ります。そして同年10月、京都の大徳寺で信長の葬儀を盛大に営みました。現在も大徳寺総見院に、このとき作られたと伝わる木造の信長坐像が残っています。MVの最後では、焼け跡で扇を胸に抱く秀吉の涙に、残された者の思いを重ねて描きました。
【脚色について】
一人称の歌詞と心情は制作者の創作であり、ビロードのマントの意匠も創作として描きました。本能寺で刀を取り、炎の中で敦盛を舞う姿は、後世の物語や映像で広まった信長像をもとにした演出です。また、焼け跡で秀吉が扇を拾う場面は本能寺の翌朝ではなく、主君の死を受け止めて後を継ぐ秀吉の象徴として描きました。そして最後に崖の上へ戻る若き信長の姿を描くことで、冒頭の海辺の場面と結びつく円環の構成にしています。
Music: Suno
Lyrics: めたるく
Edit: めたるく
#織田信長 #孤高の炎 #レキチューン #戦国時代 #日本史 #AIMusicVideo