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備中守護代石川氏8代150年の居城と8代当主自刃の地 岡山県総社市西郡・同市岡谷

歴史散歩

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備中守護代石川氏8代150年の居城と8代当主自刃の地 岡山県総社市西郡・同市岡谷

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幸山城跡 (こうざんじょうあと) 総社市指定史跡 岡山県総社市西郡(そうじゃしにしごおり) 幸山城は福山城のある福山から北に伸びた標高164mに築かれた山城です。 鎌倉時代後半の延慶年間である1308年〜 1311年頃、庄資房によって築かれたと伝えられています。 のちに応永年間である1394年〜1428年頃には、 石川氏が城主となりました。 石川氏は吉備津神社の社務代を務め、備中守護細川氏の被官として備中守護代も担った一族です。幸山城は、そうした石川氏の本拠の一つでした。 戦国時代に入ると、細川氏の内紛によって守護権力は弱まり、備中国では在地勢力がそれぞれに台頭していきます。 石川氏もまた、その戦乱の中に深く関わることになりました。 城主石川久智(ひさとも)の頃、成羽城の三村家親が、毛利元就の支援を受けて備中松山城の庄氏を攻略し備中の大勢力となり、三村家親の娘を嫡男久式(ひさのり)に迎え三村氏に従います。 永禄9年(1566年)三村家親は宇喜多直家の放った刺客により暗殺されます。 永禄10年(1567年)備前宇喜多氏と龍ノ口城を巡る争いにて当主久智は討死します。(この戦いで傷を負い、その傷がもとで他界したとも。) 石川久智の跡を嫡男久式が継ぎました。 (備中兵乱) 天正2年(1574年)主君三村元親が毛利家から離反したため、毛利氏による三村氏討伐が始まり幸山城も票的になります。早期に撤退したのがどうか分かりませんが久式は義兄三村元親の備中松山城に入り籠城戦に加わりました。 翌、天正3年(1575年)毛利軍の兵力の前に松山城は落ち三村元親は切腹。石川久智は幸山城近くの家臣の館(岡谷城)まで逃れましたが、すでに毛利氏に降った家臣友野石見守の密告により城内の巨石の上で自刃したといわれています。 こうして石川氏8代、約150年の居城幸山城は終わりました。 幸山城は毛利氏の支配下となり、清水宗治が数年在城したとされています。 備中高松城合戦後は宇喜多氏の所領となり関ヶ原合戦のあと廃城になったと思われます。 【場所】幸山城https://maps.app.goo.gl/1fo2qcjfF5HMa... 【場所】岡谷城跡(石川久式自刃場所) https://maps.app.goo.gl/4LAoNPqcrrhej... 【参考資料】 日本城郭大系13 現地説明板 総社市HP #山城#戦国時代#幸山城趾#備中兵乱#石川久智#石川久式#岡谷城趾#三村家親#三村元親