失言だけで処刑――呉最後の皇帝・孫皓はなぜ「三国志最悪の暴君」になったのか?後漢三国志50
人類全史【オヤジの教養】
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失言だけで処刑――呉最後の皇帝・孫皓はなぜ「三国志最悪の暴君」になったのか?後漢三国志50
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西暦264年、東呉最後の皇帝として即位した孫皓。
即位直後の孫皓は、倉を開いて貧しい民衆を救い、宮女を故郷へ帰し、宮中の珍しい鳥や獣を野へ放つなど、名君を思わせる政治を行いました。
人々は、「ようやく東呉にも立派な皇帝が現れた」と期待しました。
しかし、その善政は長く続きません。
孫皓は即位からわずか数か月で、自分を皇帝へ押し上げた濮陽興と張布を逮捕し、三族に至るまで処刑しました。
中原の風景を褒めた使者を殺し、酒宴で酔った学者・王蕃を処刑し、寵妃の召使いを法に従って罰した官吏には、真っ赤に焼いた鋸による残酷な刑を命じました。
さらに孫皓は、巨大宮殿・昭明宮の建設、建業から武昌への遷都、数千人規模の後宮、全国の高官の娘を対象とした宮女選抜など、莫大な浪費を繰り返します。
地方では民衆が飢え、税を納められない太守は処刑されました。
ところが飢民を救済した太守まで、「自分の人気を高めようとしている」と疑われ、殺害されます。
孫皓の朝廷では、法律に従っても殺され、民衆を救っても殺され、正しい意見を述べても殺されました。
酒宴には臣下の発言や表情を記録する黄門郎が配置され、少しでも皇帝の機嫌を損ねれば、翌日には罪に問われます。
宴会は君臣が親しく交流する場所ではなく、皇帝が臣下の失言を探し出す尋問室へ変わっていったのです。
陸凱、陸抗、楼玄、賀邵、韋昭らは、国家を救うため孫皓へ諫言しました。
しかし忠臣は遠ざけられ、追放され、あるいは処刑されました。
その一方で、孫皓の趣味に迎合し、猟犬や祥瑞を利用して利益を得た何定のような佞臣は、侯爵にまで上り詰めます。
孫皓は現実の国力を見ようとせず、
「庚子の年、天子の車が洛陽へ入る」
という予言を信じ、自分が天下を統一すると考え続けました。
しかし北方では、西晋の司馬炎が蜀漢の兵力と長江上流の水軍基地を手に入れ、東呉征服の準備を進めていました。
皇帝の周囲では毎日のように吉兆が報告される。
しかし地方では民衆が飢え、兵士は疲れ、有能な官僚と将軍は次々と消えていく。
孫皓は恐怖によって国家を支配したつもりでした。
実際には、恐怖によって東呉の目と耳を、自ら潰していたのです。
今回は、孫皓の即位、濮陽興・張布の粛清、王蕃の処刑、焼けた鋸による刑罰、武昌遷都、昭明宮建設、後宮の拡大、陸凱・陸抗の諫言、何定の専横、楼玄・賀邵・韋昭の悲劇、恐怖の酒宴、そして西晋侵攻前夜までを詳しく解説します。
なぜ、即位直後には善政を行った孫皓が、短期間で残虐な暴君へ変わったのか。
なぜ彼は、自分を皇帝にした功臣まで皆殺しにしたのか。
そして孫皓の恐怖政治は、東呉の滅亡をどこまで早めたのでしょうか。
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