「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 長宗我部元親と子孫たち② 元親の後継者盛親が改易となり大坂夏の陣で刑死となるが・・ History of JAPAN
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長宗我部家の遠祖は秦の始皇帝に連なるとされる渡来人・秦氏であり、保元の乱(1156年)に敗れた秦能俊が土佐国宗我部郷に土着したことに始まる。近隣の香宗我部と区別するため、長岡郡の「長」を冠して「長宗我部」を名乗った。
戦国期に現れた長宗我部元親は、若年期は肌白でおとなしく「姫若子」と侮られたが、初陣で槍を振るって敵を討ち「鬼若子」と恐れられる存在へと変貌した。農兵一体の即応軍事組織「一領具足」を率いて土佐を統一し、やがて四国全土へ覇権を広げた。元親は中央の織田信長と同盟を結び、取次役の明智光秀やその重臣・斎藤利三と姻戚関係を築いた。後に信長と対立するが、近年の「石谷家文書」の発見により、本能寺の変直前に元親が信長への恭順を決断していたことが判明し、光秀の動機をめぐる「四国説」の重要証拠として注目されている。
信長亡き後、羽柴秀吉・秀長兄弟が10万規模の大軍で四国へ侵攻した。秀長の卓越した統制と包囲網を前に元親は降伏し、領地は土佐一国へと削られた。さらに九州・戸次川の戦いで嘱望された嫡男・信親が戦死すると、元親は深い失意から精彩を欠き、強引な後継指名によるお家騒動を招いたまま慶長4年(1599年)に世を去った。
家督を継いだ四男・盛親は関ヶ原の戦いで改易され京都で蟄居したが、豊臣秀頼の招きで大坂の陣に参戦し「大坂城五人衆」に名を連ねた。夏の陣「八尾の戦い」では堤防に兵を伏せ、幕府軍の藤堂高虎隊を壊乱寸前まで追い詰める猛勇を見せた。しかし大坂落城後に捕らえられて六条河原で斬首され、元親の直系宗家は断絶した。
だが、一族の血筋は途絶えなかった。元親の末弟・島親房(島親益)の子孫が土佐に残り、江戸時代は山内家のもとで「島」姓を名乗る下級藩士(下士)として臥薪嘗胆の歳月を耐え抜いた。明治維新後に「長宗我部」へ復姓し、昭和3年(1928年)には元親公孫として昭和天皇から元親への正三位追贈を受けた。
第17代当主の長宗我部友親氏は坂本龍馬の生家隣で育ち、「もし関ヶ原後に土佐半国でも残っていれば、藩内の血みどろの身分対立はなく龍馬らも落命せずに維新を迎えただろう」と鋭い歴史洞察を述べている。激動の乱世と苦難を生き抜き、武門の誇りと血脈を現代へと繋ぎ止めた長宗我部家は、戦国史のもう一つの深層を物語っているが・・
作曲 秋山裕和
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