松竹芸能生ライブ漫才大会!正司敏江、浮世亭三吾・美ユル、チキチキジョニー(2011年、2014年)
秋蛇星
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松竹芸能生ライブ漫才大会!正司敏江、浮世亭三吾・美ユル、チキチキジョニー(2011年、2014年)
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秋蛇星短編映画製作所 20260930 制作
松竹芸能生ライブ漫才大会!正司敏江、浮世亭三吾・美ユル、チキチキジョニー
正司敏江・玲児(しょうじとしえ・れいじ)は、かつて存在した日本の漫才コンビ。元夫婦の2人が組んでいた。松竹芸能所属。
メンバー
正司 敏江(しょうじ としえ、本名:及川キミコ、1940年11月9日 - 2021年9月18日(80歳没))香川県小豆島土庄町肥土山生まれ[1]。血液型A型。
正司 玲児(しょうじ れいじ、本名:及川玲児、1939年1月17日 - 2010年12月10日(71歳没))大分県国東市(旧国東町)田深[1]。血液型O型。
来歴と芸風
漫才におけるツッコミがボケを叩く、いわゆる『どつき漫才』の第一人者。
敏江の父親は天理教の宣教師で[1]、布教のため敏江が小学校卒業後、一家で香川県坂出市に転居[1]。坂出市立川津中学校卒業後、大阪府の叔父を頼り来阪、ミシン工場で見習い兼女中として働く[1]。一年半の後、父親が『かしまし娘』の両親と知り合いだったため1957年、かしまし娘の住み込み弟子となる[1]、ある日かしまし娘の父が2人の弟子・芳江、春江を連れて来てかしまし娘の妹分を結成させるということになり敏江が入り「ちゃっかり娘」を結成した。1962年初舞台。ギターを担当した。他の2人が津軽三味線の世界に飛び込んだため解散(のちに津軽姉妹を結成。芳江はのちに津軽ひろ子の名で活動)。
玲児は小学校6年生のときに両親が離婚し、福岡県八幡市(現在の北九州市)に移る[1]。八幡市立花尾中学校を卒業後にパン屋や八百屋、工場、酒屋などの職業を転々とし、1962年に京芸プロ(漫画トリオの個人事務所)従業員を経て、松竹芸能に入社。フラワーショウを担当をしていたが、1963年に本名で音楽ショウ・ピスボーイを中井次郎(現在の吉本新喜劇座員の池乃めだか)らと組んで初舞台。
のちに池乃めだかは『自分は玲児さんの弟子』と、玲児が師匠にあたる事を明かしている。また当時、一世を風靡していた横山やすしと事務所の垣根を越え、深い親交を持っていた。
敏江と玲児は共に売れていなかったが、当時から2人は交際しており、裏方(マネージャーの玲児)が商品(芸人の敏江)に手を付け、芸界の掟を破ったことで、師匠の正司歌江から破門される。1964年、浪曲師の斎東満夫妻の仲人で結婚。
1966年、夫婦である事を隠し、兄妹漫才と偽って正司利児・敏江の名で神戸松竹座から再出発[2]、その後夫婦漫才コンビである事を公表。しかし敏江は台本の覚えが悪いのに稽古嫌いで、いい加減なアドリブで誤魔化してばかりだったため、前座に燻っていた。ある日、舞台上で怒った玲児が敏江を本気で突き飛ばしたところ、これが初めて客にウケる。最初は一方的に張られていた敏江だったが、玲児に逆襲すると更にウケる事を発見し、嫁主導の夫婦どつき漫才の型を確立、一躍注目を浴びた。
1969年、第4回上方漫才大賞新人賞受賞。これをきっかけに人気は上昇。特にこの時期、朝日放送プロデューサーの澤田隆治は2人にテレビタレントとしての将来性を見出し、レギュラー番組を次々と立ち上げる。
1970年『第21回NHK紅白歌合戦』(NHK)の応援合戦に、京唄子・鳳啓助、三代目笑福亭仁鶴らとともに上方の漫才、落語系演芸人としては当時初めてとなる出場を果たす。
1971年、テレビドラマ『時間ですよ』(TBSテレビ)にレギュラー出演(共演/森光子、松原智恵子、堺正章、天地真理他)
1970年代、世間で『仮面ライダー』が流行っていた若い頃には「ライダーキック!」の掛け声と共に飛び蹴りしたり、敏江もサービス精神を発揮し、振袖の裾をはだけてのパンツ開帳を定番ギャグにするなど、生傷の絶えない熾烈な芸にエスカレートしていった。
1974年、玲児の浮気が発覚して私生活では結婚10年で離婚となったが、根強い人気に後押しされてコンビは継続し、養育費問題を始め家庭の不幸すらネタにしてしまった。夫婦漫才が離婚後も組み続けているのは、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助以来である。
玲児の葬儀は2010年12月14日、大阪市北区の葬儀場で行われ、喪主は長男の及川孔児で、弔辞は横山たかし・ひろしが読み上げた。通夜には笑福亭鶴瓶、池乃めだか他、本葬には敏江の師匠である正司歌江も弔問に訪れ、3~400人に見送られた。
その後は、敏江一人で舞台を中心に歌や漫談で活動を続けていたが、敏江も2021年9月18日1時59分、脳梗塞のため大阪市内の病院で死去した[7][8]。80歳没。
敏江の所属事務所はデビューから亡くなるまで一貫して松竹芸能であった。
レコード
しびれ女のブルース/147センチのバラード(1970年11月)(キダ・タロー作曲)‐ B面の「147センチのバラード」は後に2番のセリフがシングルと異なるテイクが発見され、「キダ・タローのほんまにすべて」には2番のセリフがシングルと異なるテイクが収録された。
夫婦の花道/母恋怨歌
チューリップ人生/悲恋酒
振られた女の子守唄/くどいたお方はどこの人(1976年4月)‐正司敏江ソロ
わてには関係ありまへん/出逢い橋・別れ橋・再会橋(1978年)‐正司玲児ソロ
とんぼり人生/さすらい港町(1987年11月)‐A面の「とんぼり人生」は正司敏江のソロで、B面の「さすらい港町」は正司玲児のソロ
結婚・離婚(くっついたりはなれたり)/花かげろう(1989年)‐B面の「花かげろう」は正司玲児のソロ
人生おんな詩/日本列島がんばりやー(1990年10月)‐A面の「人生おんな詩」は正司敏江のソロで、B面の「日本列島がんばりやー」は正司玲児のソロ
まごころ音頭/人情芝居(1992年9月)‐A面の「まごころ音頭」は正司玲児のソロ
野牡丹[9]/こころの港(1994年10月)‐A面の「野牡丹」は正司敏江のソロで、B面の「こころの港」は正司玲児のソロ
著書
正司敏江のどつかれても踏まれても(1992年9月、恒友出版)ISBN 978-4765220668
メディア出演
テレビ
敏江・玲児だ、みんな集まれ!(1969年、朝日放送)- 月〜金の帯番組。2人で出演。提供:任天堂、いづみや(現:イズミヤ)。
あきれた学園(1969年、朝日放送) - 主演
ミニミニ社員(1970年、朝日放送) - 主演
道頓堀アワー (朝日放送)
魔女はホットなお年頃 第3話(1970年、毎日放送)-敏江のみ。
大江戸捜査網 第1シリーズ 20話「三度笠が悪を斬る!」(1971年)-旅をする男女役
第22回NHK紅白歌合戦(1971年、NHK総合・ラジオ第1)
奇想天外歌合戦(1971年〜1972年、日本テレビ)- 2人で司会。
時間ですよ(第31回 - 第65回、TBS)
漫才十八番 (1982年、TBS)
へんしん!ポンポコ玉 第8話「ピンチ?ぴんちナノダ!」(1973年、TBS)- 怪盗ホワイト(玲児)、怪盗ブラック(敏江) 役
こんばんは漫才デース(1974年、朝日放送)- 2人で司会。
日本沈没(1974年、TBS)第4話「海の崩れる時」-本人役
家族そろって三つの歌 (日本テレビ)- 家族で出演。
お笑いネットワーク(日本テレビ)
秘密のデカちゃん 第20話「何がなんでも!猛烈女医の結婚宣言」(1981年、TBS) - すみれ(敏江)、岩造(玲児)役
ザ・ハングマン 第40話「トルコ風呂密室殺人」(1981年、朝日放送) - 風俗嬢(敏江)とその客(玲児) 役
バラエティー生活笑百科(NHK総合[10])- 2人で出演。
ボキャブラ天国(フジテレビ) - 特番で1回のみ。番組内でのキャッチコピーは“ザ・グレートどつき”。
殿さま風来坊隠れ旅 第11話「渡る世間は泥棒ばかり」(1994年、テレビ朝日)
ラジオ
ヒットでヒット バチョンといこう!(ラジオ大阪)
映画
座頭市御用旅(1972年1月15日公開、東宝)- 旅芸人夫婦 役
ゾロ目の三兄弟 (1972年4月14日公開、東映)- 主人公の隣人 役
男はつらいよ 寅次郎物語(1987年12月26日公開、松竹)- 宿の女中 役
CM
ジャパンチェーン(パチンコ、東海地方ローカル)
いしよし(墓石・仏壇販売)
任天堂(玩具・N&Bブロックミックス)
石井表記
UYEKI
ニューいづくら(温泉旅館、北陸地方ローカル)
Vシネマ
DiGi mation 5 新桃太郎伝説 七夕の村は激戦区
浮世亭三吾・美ユル[注 1](うきよてい さんご・みゆる)は、松竹芸能所属の親子漫才コンビ。1995年1月11日、道頓堀浪花座で初舞台。
芸風
初期は音曲漫才で、美ユルが生恵幸子のように流行歌を金切声で独唱したり、舞台上にピアノを持ち込んで童謡を合唱したりしていた。
その後、美ユルが三吾の欠点を早口で一方的にあげつらい、三吾が狼狽したところで突如敬語になり「…お父さま」の一言で締めくくる、今喜多代の芸を摸したしゃべくり漫才に移行した。
三吾の弟子には大吾・小吾(大吾は恰幅のいい男装の女性)がいた。
メンバー
浮世亭三吾(うきよてい さんご、本名・沼口 正利、1943年12月14日 - 2025年10月25日)
大分県出身。福岡県の中学校卒業後、サラリーマンをしながら喜劇の曽我廼家明蝶主催の「明蝶学院」で修行を積む。浮世亭とん平に入門し、学院で同期だった十吾と浮世亭三吾・十吾(一時期コンビ名は3×5=15)を結成。1969年に大阪万国博覧会で初舞台を踏み、若手実力派から中堅へと順調に育ったものの、十吾の引退に伴い1989年に解散。しばらく弟弟子で日系人の浮世亭ジョージ[1]と、「浮世亭三吾・ジョージ」名義で活動したが、娘と組むため1993年にコンビ解消。
顔が獅子舞に似ている(ジョージと組んでいた頃からよく弄られていた)。
2025年10月25日、急性呼吸不全・慢性腎不全のため亡くなった。81歳没[2]。相方であり三女である美ユルのブログで公表された[3]。
美ユル[4](みゆる、本名・沼口 美ゆる、1976年2月28日 - )
三吾の長女。幼少時から漫才師志望が強く、尼崎市立尼崎産業高等学校卒業を待って父と組む。
当初は「さやか」という屋号があった。
出演番組
バラエティー生活笑百科(NHK総合テレビ)
上方演芸ホール(NHK総合テレビ※関西ローカル)
上方演芸会(NHKラジオ第1)
兵動大樹のほわ〜っとエエ感じ。[5](ABCラジオ)など
脚注
注釈
コンビ名は、浮世亭三吾・さやかみゆる→浮世亭三吾・みゆる(1998年頃〜)→浮世亭三吾・美ゆる(2005年頃~)→浮世亭三吾・美ユル(2008年頃~)→三吾・美ユル〔亭号なし〕(2011年頃~)→浮世亭三吾・美ユル(2022年頃~)と変遷している。
出典
元「浮世亭ジョージ・ケンジ」。ジョージは太平サブロー・シローを一時解散していた太平シローと1970年代末にコンビを組んでいたことがある。ケンジは「国分健二」の芸名で落語芸術協会に所属。
“親子漫才の浮世亭三吾さん、死去 81歳 娘・美ユルが粋な追悼「最期もアピールを忘れなかった」 | | オリコンニュース”. 佐賀新聞 (2025年10月30日). 2025年10月30日閲覧。
“上方の親子漫才師 浮世亭三吾さん死去、81歳 相方の娘美ユルが報告”. 日刊スポーツ (2025年10月30日). 2025年11月2日閲覧。
“美ユル『昔から何度も』”. ふたご親子漫才 三吾・美ユル「人生二度なし」Powered by Ameba. 2022年10月30日閲覧。
2014年10月、「チケット兵動」コーナーに結成20周年ライブの宣伝でゲスト出演。吉本興業所属者の出演が圧倒的に多い同コーナーでは珍しい松竹芸能所属ゲストとなった。
関連項目
完熟フレッシュ - 三吾・美ユルより後にデビューした父娘漫才コンビ。父の池田57CRAZYは美ユルと同学年。