坂本城②比叡山延暦寺から西教寺まで巡ってわかった「明智光秀の街づくり」
かいのすけ 歴史
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坂本城②比叡山延暦寺から西教寺まで巡ってわかった「明智光秀の街づくり」
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「天下にこれほど有名なものはない」と言われた坂本城。戦国時代、織田信長の家臣明智光秀によって築かれたとても豪華な城だったんですが、現在、痕跡はほとんど残っていません。この坂本城が築かれたあたりは「下坂本」と呼ばれる地域。琵琶湖に面した物資の荷揚げ場所で、光秀が城の堀の中まで船で入れる構造にしたのは、城に港としての機能も取り入れたからなんです。つまり、下坂本は港町なのですね。下坂本があれば上坂本もあるはず。そう、ここから西に1キロほどにある山のふもと一帯が、上坂本。こちらは日吉大社をはじめとする神社やお寺が立ち並ぶ地域。高僧の隠居所である「里坊(さとぼう)」がなんと50以上もあるそうです。そしてあちこちで見られるのが石垣。これは石工集団「穴太衆」によるもの。彼らの技術はその後の城づくりに大きな影響を与えることに。上坂本の美しい街並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。そして上・下あわせた坂本の町は、中世近江「最大の都市」でもありました。現在の感覚でいうと、滋賀県の県庁所在地大津のはずれなので、ちょっと意外ですよね。でも理由を聞けば、誰もが一発で納得するはず。それはこの山の上に、巨大寺院、比叡山延暦寺があったからです。坂本は延暦寺の活動を支える門前町、そして港町として大いに賑わっていました。ですが、それはあくまでも一方からの見方。周辺の戦国大名にとっては、政治・宗教・経済・地政のすべてが絡み合うとても複雑でやっかいな場所でもあったんです。織田信長、そして明智光秀は、そんな坂本に城なんて築いて大丈夫だったのでしょうか。今回は坂本城周辺からさらに散策範囲を広げて、光秀の築城と町づくりを読み解いていこうと思います。