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原爆投下目標は「自宅付近」のはずだった... 96歳女性 桜の名前にもなった亡き友と過ごした青春 ~「嘉代子桜」が繋ぐ記憶 

NBC長崎放送

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原爆投下目標は「自宅付近」のはずだった... 96歳女性 桜の名前にもなった亡き友と過ごした青春 ~「嘉代子桜」が繋ぐ記憶 

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桜になった亡き友を訪ねて...爆心地から約500メートルにある 長崎市・城山小学校の「嘉代子桜」。 81年前、学徒動員先だったこの学校で、15歳で爆死した林 嘉代子さんを偲び、母親が植えた桜です。桜の頃になると、原爆で亡くなった友人を思い出すという96歳の女性がいます。岩永 美代子さん(96):「きれいね、静かで」岩永 美代子さん、96歳。林 嘉代子さんとは、旧制・県立長崎高等女学校の同級生でした。岩永美代子さん:「(集合写真を見ても)やっぱり目がそっちにいくのね。ふっと見て、探すんじゃなくて、その人に目がいく」原爆で、およそ140人もの学友の命が奪われました。今も残る手紙  "お茶目"だった嘉代子さん 長崎市万屋町。中島川沿いに建つ創業131年の岩永金物店。 岩永さんはここで生まれ育ち、今も暮らしています。母と、二人の姉も、長崎県立長崎高等女学校出身だったことから、岩永さんも、おのずと県立高女に進学しました。1年生の時 同じクラスだった林 嘉代子さんとは、背丈が同じだったことから並ぶ時はいつも隣。 お互いピアノを習っていたこともあり、すぐに仲良くなったそうです。岩永 美代子さん:「(林 嘉代子さんは)お茶目さん。だから、お母さんがいつでも『嘉代ちゃんは もう』って細々とした声でよく言って、笑ってた。一人娘だったからね」当時 嘉代子さんから届いた手紙を、今も大切に持っています。 親戚の結婚式に参列したことを綴った文面。お茶目な人柄が伝わってきます。手紙『おしろいぺたぺたつけてさ。おまけに口紅までぬったでせう(でしょう)。だから何だか気持が悪くて口が結べないの。それに帯をキュキュしめられて苦しくて苦しくて。おかげでオゴチサウ(おごちそう)何もたべんかったわ。おお あはれ(あわれ)なるかな 嘉代子嬢』水泳・運動会・音楽会・テニス部...太平洋戦争 最中の青春岩永さんたちが入学したのは、1942年。日本はすでに太平洋戦争に突入していましたが、当初は、英語や、水泳の授業、運動会もあったそうです。ピアノをしている生徒有志による音楽会も。岩永さんは、バイエル100番を演奏したそうです。部活動もあって、岩永さんは、庭球・テニス部でした。岩永さん:「靴がないでしょう? どうかすれば素足だろうね」記者:「テニスは結構得意だったんですか?」 岩永さん:「そうね。これ(腕)が強かった」 記者:「腕の力が?」 岩永さん:「そいけど、懸垂は下手くそだったのよ(笑)」工場に動員されなかった嘉代子さんを "羨ましく思っていた"しかし、次第に日常は奪われ、校舎は敵機の目をくらますため、迷彩色に塗りかえられました。3年生の秋からは学徒動員が始まり、岩永さんは兵器工場で働きました。岩永さん:「魚雷を作っていた。筒っぽのだいぶ大きいドラム缶のようなものに部品をくっつけていくわけね。そういうのをやらせられるのさ」一方、嘉代子さんの動員先は、三菱兵器製作所の給与課で鉄筋コンクリート造りの城山国民学校にありました。岩永さん:「給与課はよかねー、あんた、手の汚れんとよ、とかやっぱり言ってたよね」運命の8月9日 被爆後7→5クラスにそして迎えた8月9日ー。 朝から体調が悪かった岩永さんは、自宅近くの病院に行き、そこで被爆しました。岩永さん:「写真を撮る時のあのマグネシウムみたいな。パーッと白で光って。へ?っていう間はなく、もうめちゃくちゃよね。ガラスから何から」 記者:「けがは?」 岩永さん:「なかったのよ、それが」爆心地から3キロあまりの岩永金物店は、倒壊を免れ家族も無事でしたが、当時からある店の倉庫には爆風の凄まじさを物語るものが残っています。岩永さんの長男・岩永和之さん:「これですね、これが原爆で曲がった鉄のアングルです」学校が再開したのは10月。 7クラスあった岩永さんの学年は5クラスに。 林 嘉代子さんが亡くなったのを知ったのも、その頃でした。岩永さん:「無表情と同じ。『あの人亡くなったんだってよ』『あ、本当』って。戦争に負けたという事実自体がわからんのよね。だって、勝つまでは頑張りますとか何とか言って一生懸命やってきて。はぁっと。そんなもんよ」岩永さんたち生き残った42回生は、半年後、青春を取り戻せないまま卒業しました。被爆から49年後の衝撃  爆心地だったかもしれない自宅被爆から49年後、長崎原爆にまつわる新たな事実が報じられます。あの日、視界不良で第一目標だった小倉に原爆を投下できなかったB-29が次に投下を目指したのは、長崎市の中島川にかかる常盤橋と賑橋付近だったのです。そこはまさに、岩永金物店のある場所でした。岩永さん:「近所の者で、ええっ、あそこが、中心だった、ええっ」あの日、仕事に行きたがらなかったのを、母親になだめられ家を出たとされる嘉代子さんー。動員先に行かず、爆心地だったはずの自宅近くにいた自分ー。 その頭上にかかっていた雲ー。嘉代子さんら雲の切れ間にいた友人たちー。生と死を分けたものは何だったのかー? こたえが見つかることはありません。今もわからないままの友人たちの最期...確かにあった青春犠牲となった友人たちの最期も聞けないまま、81年が経ちました。記者:「(友人たちの最期を)ご家族にも聞けなかったですか?」 岩永さん:「そうね…」 記者:「いくら仲が良くても?」 岩永さん:「そう……難しいね」嘉代子さんら友人たちと過ごした青春ー。突然絶たれた青春に、何とか 自分なりに整理をつけ、生きてきました。岩永さん:「ふっと思い出すこともあるしね。なんかもうそこにいるような気もするしね...」誰に語るでもない 今も聞こえる亡き友の声があります。手紙『はるか彼方 岩さんへ・・・嘉代ちん』 詳細は NEWS DIG でも!↓ https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/...