柴田勝家はなぜ、勝っていたのに敗れたのか|賤ヶ岳の分かれ道
負け戦の地図
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柴田勝家はなぜ、勝っていたのに敗れたのか|賤ヶ岳の分かれ道
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負け戦の地図
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天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦い。柴田勝家はなぜ、勝っていたのに敗れたのか。
4月20日、勝家の甥の佐久間盛政の隊が湖を回って大岩山の砦を落とし、中川清秀は討たれます。この日、勝っていたのは勝家の側でした。盛政はそのまま大岩山にとどまり、その夜、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍が美濃から戻ります。翌21日、勝家の側は崩れ、勝家は越前の北ノ庄へ退いて、24日、お市とともに城で果てました。
本物の地形の地図の上で、本能寺のあとの争いから北ノ庄の最期までをたどります。勝家が盛政に退けと命じたのか、前田利家がなぜ戦場を離れたのかは、同じ年の軍記からは見えません。言えることと言えないことを分けて示します。
■1つの分かれ道と1つの問い
①大岩山:勝った場所に、とどまるか
問:前田利家は、なぜ戦場を離れたのか
■チャプター
0:00 冒頭
1:41 第1章 勝家と争いのはじまり
5:06 第2章 湖をはさんだにらみ合い
8:33 第3章 四月二十日、大岩山
11:14 分かれ道① 大岩山にとどまるか
13:48 第4章 秀吉が戻る・二十一日
18:28 問 利家はなぜ離れたのか
20:14 第5章 敗走と北ノ庄の最期
26:31 終章 その後・もしも・結び
■記録・言い伝え・推定
・記録=同じ年に秀吉の側で書かれた軍記と、秀吉・勝家の書状。転記や要約で見たため、札の枠は点線です
・言い伝え=後の時代の軍記・逸話(破線)
・推定=研究者の説、陣や砦の場所、今の地図での計算(点線)
軍記は勝った側の筆で、城の中の最期も外から書いた描写です。
勝家が何度も使いを送って引き揚げを命じた話、清須会議で勝家が信長の息子の信孝を推した話、毛受勝照の身代わり、府中の湯漬け、最後の火薬は言い伝えです。七本槍の七人は江戸の初めの本からで、同じ年の軍記は一番槍として九人を挙げます。
秀吉が二刻半(今の五時間ほど)で木之本へ戻った数字は軍記のもので、全軍がこの速さで動いたとは限りません。盛政がいつ大岩山を離れたか、利家がいつ離れたかも、はっきりしません。
兵の数は大きく割れるため、幅で示しました。逃げた勝家の人数も、軍記は百余騎、秀吉の書状は四、五騎です。盛政の道すじと北国街道の線は推定、もしもは地図の上の仮定です。
■主な史料・参考
・『柴田退治記』(別名 柴田合戦記。大村由己、天正11年11月。ja.wikisource の転記。底本は続群書類従・群書類従)
・秀吉の書状(小早川隆景あて『毛利家文書』ほか)、勝家の覚書(堀秀政あて『南行雑録』)、『多聞院日記』
・後の時代の軍記:『賤岳合戦記』『佐久間軍記』『川角太閤記』『甫庵太閤記』『絵本太閤記』ほか
・研究者の説(渡邊大門、高柳光寿、柴裕之、太田浩司の各氏)は、記事やWikipediaの要約に拠っています
・書状や日記の原本・翻刻は見ていません。本編の「記録」は、軍記の転記と、研究者の本・記事・Wikipediaに引かれた写しや要約に拠っています
■地図・絵・声
・地図:国土地理院の地理院タイル(色別標高図・陰影起伏図・標高タイル・淡色地図)を加工して作成。現代の地形です
出典:国土地理院 https://maps.gsi.go.jp/development/ic...
・絵:AI生成(Codex)。人物の顔や陣のようすは想像で描いたもので、肖像や当時の記録の絵ではありません
・声:AI音声(Gemini TTS)
負け戦の地図では、源平から幕末までの合戦を、負けた側の分かれ道から、本物の地形の上でたどります。
#賤ヶ岳の戦い #柴田勝家 #豊臣秀吉