三ヶ瀬古道を下る!夜明けの菰釣山から城ヶ尾山へ、落ち葉の甲相国境尾根を東進。
何やってんだろうね BIVOUAC LIFE
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三ヶ瀬古道を下る!夜明けの菰釣山から城ヶ尾山へ、落ち葉の甲相国境尾根を東進。
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三ヶ瀬古道の説明は下に。
2026年12月06日に、道志の森キャンプ場から大西沢右岸尾根を登り、標高1305m付近にツェルト泊し、12月07日には菰釣山に登り、黎明の富士山を撮影し、菰釣山から避難小屋へ下り、甲相国境尾根を辿ってブナ沢乗越、ブナ沢ノ頭、中ノ丸、城ヶ尾山を通過し、三ヶ瀬古道を通って道志の森キャンプ場に下りました。参考になればと思います。
城ヶ尾山ならびに城ヶ尾峠の事をAIに聞いてみました。
1.城ヶ尾山
城ヶ尾山(じょうがおやま)と城ヶ尾峠(じょうがおとうげ)は、南北朝時代や戦国時代の武将にまつわる砦の伝説や軍勢の伝承が残る歴史的な場所です。神奈川県山北町と山梨県道志村の境、西丹沢の山深い尾根に位置しています。
1) 南北朝時代の伝説(新田義興の逃避行)正平7〜8年(1352〜1353年)、足利尊氏に追われた南朝方の武将・新田義貞の次男である新田義興(にったよしおき)が山北町の河村城に逃げ込みました。しかし足利勢の大軍に耐え切れず、この地へ逃れて峠付近に砦(城)を築いて戦ったという言い伝えがあります。その後、敗れた義興はこの峠を越えて甲斐(山梨県)方面へ落ち延びたとされ、山に「城」の字が使われる由来になりました。
2) 戦国時代の伝承(武田信玄の小田原攻め)永禄12年(1569年)、武田信玄が小田原の北条氏康を攻めた「小田原攻め」の際に関わっています。甲斐の武田勢の兵士たちがこの城ヶ尾峠を越え、城ヶ尾山に陣を張ったという言い伝えが残っています。峠の南側には、同じく信玄にちなむ「信玄平(しんげんぺい)」という地名も存在します。
3) 三ヶ瀬古道(さがせこどう / さかせふるみち)城ヶ尾峠は別名「サガセ峠(三ヶ背峠)」とも呼ばれ、山梨県道志村の「三ヶ瀬」地区と、神奈川県山北町の「地蔵平(じ蔵平)」地区を南北に結ぶ「三ヶ瀬古道」の要所でした。歴史:江戸時代末期にはすでに「古道」と公文書に記録されていたほど古い歴史を持ちます。江戸時代、道志側の領民が西丹沢の世附(よづく)地方へ抜けて薪炭の交易を行ったり、生活物資を運んだりするための重要な生活・交易路でした。
2.三ヶ瀬古道
1) 交易と生活物資の流通(経済的な役割)
もっとも日常的で重要だったのが、国境を越えた物資の交易路としての役割です。
薪炭(しんたん)の輸送:山梨の道志側では良質な木炭や薪が生産されていました。これを相模側(現在の山北町や小田原方面)へ運び出すために使われました。生活物資の運搬:逆に、相模湾側から山を越えてくる塩や魚介類、日用品などを道志の村々へ持ち帰るための生活道路でもありました。険しい尾根道ですが、馬の背に荷物を載せて運ぶ「馬背(ばせい)」による往来もあったとされています。
2) 戦国時代の軍事路(戦略的な役割)
武田氏と後北条氏が激しく争った戦国時代には、軍勢の移動や情報伝達を行う軍事路として機能しました。武田軍の進軍ルート:武田信玄が小田原攻めを行う際、主要な街道(甲州街道など)を避けて、敵の裏をかくバリエーションルートとしてこの古道や城ヶ尾峠、犬越路が使われました。国境の監視・連絡:国境尾根のすぐ南側にある「地蔵平」には古くから人が暮らしており、有事の際には烽火(のろし)や伝令がこの道を通じて行き交いました。
3) 近世〜近代の林業と集落を結ぶ道(地域産業の役割)
明治から昭和中期にかけては、丹沢の豊かな森林資源を切り出す林業の作業路、そして山奥の集落を繋ぐ生命線へと役割を変えていきました。地蔵平集落の生活路:古道の途中にあった「地蔵平(じぞうだいら)」は、大正から昭和にかけて林業(炭焼きや木材伐採)で非常に栄え、最盛期には学校の分校ができるほど多くの家族が暮らしていました。この孤立した山奥の集落にとって、三ヶ瀬古道は外部の世界(山北の中川方面や道志方面)へ繋がる唯一の主要道路でした。