精霊の守り人 タンダの地味な名シーン
cube sour
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精霊の守り人 タンダの地味な名シーン
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原作:上橋菜穂子
監督:神山健治
アニメ 第六話
脚本:菅正太郎・神山健治
タンダcv:辻谷耕史
薬草師であるタンダが、ある理由で追われる身となってしまった幼馴染と、その連れを守るために追っ手を欺くシーンです。
ですが欺くというか、タンダは嘘をついてません。意図せずあふれ出たような本音まじりのボヤキのおかげか、相手は疑念を抱く間もなく、場の空気に飲みこまれ退散してしまうという。まるで人の心を操るかのようなタンダのこの神対応。その原料となるものは何でしょう。
当然ながら、幼馴染をとりまく現状はタンダの望むものではなく、なんなら薬草師となった自分の人生までも持ち出して、そこに恨めしさを感じているふしさえあります。さらには幼馴染の無事を祈りながら、ただ待つことしかできない自分の非力さに打ちのめされるのは、これで何度目か。いくら大切な人のためとはいえ、なんともやりきれない気分にもなるでしょう。
薬草に関しては誰よりも詳しくなった。そして人を煙に巻くくらい容易いこと。これからも自分にできることはするつもりだし、だからといって見返りを考えたことは一度だってない、ないけれど、いくらなんでもこんな仕打ちはないだろう。
数年ぶりに戻ってきたかと思えば、またとんでもないことに巻き込まれていた幼馴染。もうしばらくの間、タンダの心配が尽きることは無さそうです。その幼馴染が背負いこんだもののことを考えたら、確かにタンダの気苦労の比ではないけども…
自虐的でブラックジョークっぽい笑いに誘われますが、と同時に伝わってくるのは軽い絶望、諦め、卑屈さ。ですがそこから哀愁や温もりも垣間見れる珠玉の場面かと思います。
頭が良くて誠実で忍耐強く、とても心優しいタンダにご褒美あげたくなりますね。
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この作品の主人公はバルサという、傭兵や用心棒として実戦を積み重ねてきた手練れの短槍使い。ですから迫力のある戦闘シーンも見どころですが、やはりこの作品の神髄は「経験と成長」だと思います。
乗り越えがたい試練への心構えと対処。未知なる苦難に対する恐怖の克服。そして望まぬ使命を定められ、その生き方を大きく変えられた人たちが、この世も人も恨まずにその憤りや悲しみを他者に向けてしまわないよう如何にして最善を尽くしたか。そもそも、それは人に可能な善行なのか。
そこには後悔や過ちなどという言葉だけでは解きがたい疑問、あまりにも重く複雑な理由、経緯がありました。ですが、それはその本人ではないから分からなかっただけで、いざ自分が似たような立場になってしまえば、案外それは単純な動機であった可能性が見えてきます。
作品はオカルト風味のファンタジー要素はありますが、あくまでも現実的であり物質的です。そして焦点はしっかりと人間の心に当てられており、この物質的な世界での生き方をいくつか提示している場面も描かれています。
何をするにも、お金が必要であること。人の動向を探るには心理を理解し、その人間の視点で物事を見る、という演者になること、また、それを複数人で行うことの高効率性。生まれや育ち、身分や教育の違いに影響を受けない同一性的な要素。双方から同量の情報を得て公平な決断を下す、その意識構造。時には能力ではなく、運だけで乗り越えねばならない状況が、この世には実在すること。そして、勝負において「勝利する」ということは、どういうことなのか。
学んで得ることのできる知識には確実に限界があり、どうあってもこの世界は、感じとることで初めて獲得できる力が大半を占めているのではないでしょうか。ですから遠回りをしても決して無駄にはなりませんし、いくら効率を求めても結局は無駄だらけ、それが世の常であり、主に悲劇とともに繰り返されてきた史実からも、過度の追求による甚大な損失を窺い知ることができます。
タイムイズマネー、そのとおり時間はお金になります。ですが時間がお金と同義でも、それを追求することが真理(正解)とはならないのは、お金で過去を買い戻せないから。そして時間と同義なのはお金だけではないからです。その一瞬の貴重な時間を何と交換するか。私たちは、この手で物理的に持てるもの以外のものも獲得できます。そのうえで私たちは「充分に足りている」ことに気づかなければなりません。そこに理解を進めていくことや、身近なことから実践することは、この飽和社会ではとても難しいことなのですが、難かしいことを理由にして諦めてはいけないし、先を急ぐあまり浅い理解で済ましてはなりません。
この手に物が持てるように、この心も同じく、これ以上は持ちきれない、把握できない、整理できないといった限界ライン、また、これ以上持つと「手放せなくなる」「あるべき状態に戻せなくなる」という臨界点があります。必要以上に肥大化した心、思考、欲望。それは強い執着心となって自らを蝕んでいきます。閉塞、壊疽、潰瘍、破裂など多少の違いはあれど、いずれの症状もその後は必ずある状態に帰結します。生命活動の停止は肉体にのみ起こるものではない、ということ。確かに何にでも終わりはあります。そして生きていれば失敗や間違いはつきもの。ですが命と引き換えに負の遺産を残してはいけません。
人間は望まずとも、まるで強くそう願うかのように自ら破滅へ向かい、崖を踏み外してから過ちに気づく場合があります。そのほとんどの原因は崖が見えなかったからではなく、目の前に見える段差が、まさか命に関わるような高さのものとは思わなかった、という思い込み、判断の誤り(怠り)からきています。危険を危険と認識できなかった、その一度のミスで決して元に戻らない状態になってしまう、その危険性。では、もしそのたった一度が、自分の判断ミスだけが原因ではなかった場合を考えてみましょう。
「ここは大した高さじゃないから飛び降りても平気だよ」という声が聞こえてきて、それを信じるか疑うか。高さのある崖だと前もって知っていても「あれ…確か崖じゃなかったっけ?」と自分の記憶のほうを疑う人もいれば、知らないからこそ、その声を信じない人もいるでしょう。確実なのは、本当に大した高さじゃないのかどうか、ハッキリ自分の目で確かめる以外にありません。
ですが世の中には、いろんな声が飛び交っています。近道だから楽だからと言葉巧みにたぶらかす、または恐怖でもって飛び降りることを強要する。時には確かめようと淵に近づいたところで脅迫。退路を断たれては、こちらの対応に関わらず、その利益が見込めるなら崖から突き落とされる可能性は強まります。このように何らかの目的のために、その崖を悪用する存在。それが実質的な悪または悪意と呼ばれているものになります。
私たちが「悪」と感じるもののほとんどは、じつは絶対ではなく相対的なもの。そして、ごく表面的なものです。私たちが実際に頭を悩ませているのは、善悪ではなく表裏。何事も裏と表があります。表層のみで判断し決めつけてはいけないし、その裏側を知っていると思い込んでもいけない。すべての言葉や物事は、常に変質し続ける不安定な物質であり、また、成長し老いゆく生き物と同じものであることを肝に銘じておかなければなりません。
何事にも発端や動機があり、経緯があって今に至ります。その今は自分自身にとって、どんな状態でしょう。例えば、今の自分は善か、悪か。
と、その前に「結果がすべてだ」なんて言葉を耳にしますが、それは良いものなのか悪いのか、ちょっと考えてみましょう。
とはいえ、その言葉だけで良し悪しを判断するには材料が足りません。ただ、あくまでも過程の一部分に過ぎない「結果」のみに注視することで発生する排他性、これが我々の思考を歪める可能性があります。どこかに焦点を当てることは悪くありませんが、なるべく望みどおりの結果を出すためには、そこに至るまでの道筋や、そもそもの目的意識も大切なはず。ならば出発地点からベストを尽くすこと。結果こそ全てと言いたいのであれば、最初から努力を惜しまないことも重要。
ゆえに、結果こそ全て≒結果はそれまでの努力の具現、と見成され、努力そのものを評価してもらえない場合はありますが、少なくとも、それを善悪で判断することに意味はあるのか、といった疑問が現れます。それは、今の自分だけを切り抜き、その材料のみで善悪を判断する無意味さと変わりありません。ちなみにこの思考は、詭弁や誤謬と呼ばれる理論のすり替えでもあります。
このように、言葉や物事の表面に染み出ているものに疑問や興味をもつことで、その裏側に潜むもの ( 真意や暗喩、価値など ) が放つ匂いを嗅ぎとることがてきます。内側、側面、深層、陰、闇など目立たない、気づきにくい部分に隠れているものは、見えるもの以上の確かな存在を孕んでいる可能性が高いのです。
何かについて判断したり、他者からのアドバイスを参考にする際も、その言葉や物事の内容の良し悪しに思考を巡らせるのではなく、「なんでこんなことになったのか」「なぜそんなことを言ってくるのか」といった経緯や根拠に目を向けます。さらには、それが文章的に同じような内容であっても「どういった人間がそれを言ったか」で、その内容が大きく変わることにも注意します。
人が放つ言葉や表情、挙動、日常、いわゆる言動。そして過去。そこを感じとる意識は、あなたの決断や実践に役立つはず。そのためなら誰の言葉であっても、根拠なく信じる必要はありません。もっと強めに言うなら、何でも疑う勢いで疑問を持って良いとも思うくらいです。盲目的に何かを信じる行為は非常に危険で、その緩んだ隙間から侵入しようと常に狙っているのが実質的な悪、いわゆる私利のために他者を傷つける害悪です。
タンダの凄さは、相手の問いかけのベクトルを変えずに「いなす」という初動の自然さ。知らない、と跳ねのけるのではなく、わずかな返答の遅れで不信感を煽るのでもなく。すでに腹は決まっていた、という事でしょうか。
タンダが日々、何を考えながら生き、これまでに何があったか。問い詰められる側でありながら、追っ手の心理だけでなく、善悪を超えて、彼らにも同じく守るべきものがあり、だからバルサを追っている。等しく誰もが生きるために選択を行い、敵対する。それぞれの裏と表。それぞれの誤り、正しさ。そして偽と真。
この世のすべてが同じように複雑だ、とまでは言いません。でも、ほぼ、この世は思っているよりも遥かに単純ではない。それを基調とし物事を見たり、人の話を聞くクセをつけておけば、いざという時に判断を簡素化しやすくなります。でなければ道徳だ常識だ、善悪がどうだ、など一瞬の迷いが追っ手たちの疑念を煽ることとなり「この場から退散する」以外の選択肢を奪いきれなかったかも知れません。
人の心を操るかのようなタンダの言動。それが無意識であっても意図してのことでも、どちらであってもその原動力は保護本能であり、もっと言うならそれを攻撃的に遂行できない不満や、持っていき場のない憤りに対する抑圧が、愚痴となって漏れ出たのでしょう。
タンダは理解はしています。物理的に強い力ではなくても、その支えにはなる確固たる能力を自分は持っていて、それをバルサが必要としてくれていることも。分かっていても割り切れないのは、自分が直接の命のやり取りの場で、その大切な人の背中を守れる「戦士」ではないから。それだけバルサを大切に想い心配している証拠ですが、一方でその愛する人になぜこれほどの戦士としての才能が備わっているのか、という運命に対する…
いえ、そこはバルサ本人に対して、なんで短槍なんか振り回して傷ばっかり作って戻ってくるんだ!とウンザリした気持ちも大きいでしょうね。普通にバルサを女として愛する、ただの男になりたかっただけなんだと思います。平和に普通に暮らしたかっただけ。いつかそんな日が来るんでしょうか。
「頭がいい」とか「優しい」などといった言葉。それらを私たちが普段いかに軽く扱っているか。このほんの1分足らずの地味なシーンに思い知らされた気分になります。