Перейти к содержимому

【神秘!】八百万神が集まる出雲国二之宮「佐太神社」と龍蛇神と伊奘冉尊〜最古の神体山〜

歴史神道研究家・山下弘枝

0:00 / 0:00

【神秘!】八百万神が集まる出雲国二之宮「佐太神社」と龍蛇神と伊奘冉尊〜最古の神体山〜

14 770 просмотров · 4 года назад
歴史神道研究家・山下弘枝
9,66 тыс. подписчиков
14 770 просмотров · 4 года назад
佐太神社(さだじんじゃ)は、島根県松江市鹿島町佐陀宮内にある神社。出雲国二宮、旧社格は国弊小社。 『出雲国風土記』秋鹿郡条に「佐太御子社」と記載され、『延喜式神名帳』には「佐陀神社」と記載されている、非常に古い神社である。  一般に陰暦10月を神無月と云うが、出雲國では神在月と呼ぶのはご承知の通り。 古来諸説あるが、神在は「ジンザイ」と読み、鎮齋(ちんさい)すなわち「忌(いみ)」の意味で、新嘗祭に関係があるとされる。 新嘗には斎戒を厳重に行う風俗があり、古来から、新穀を神に献ずる神事・相新嘗(あいにいなめ)を10月に行ってきた。 大宝律令制定以降、伊勢神宮だけは尊崇のため祭を繰り上げて9月に行い、その他は繰り下げて11月に行った為10月は祭りが少ない月、すなわち「神無月」となった。 しかし、出雲國では依然として10月に新穀を献ずる新嘗の祭が行われ、また、風土記に載る意宇(おう)、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲の神名火・神名樋山(かんなびやま)に神々が去来するという「神奈備信仰」が結びつき出雲國特有の祭として残っていった。 その後、10月に八百万神が出雲國お集まりになる伝承により、この月を出雲國では「神在月」と云うようになった。 神在祭は「お忌さん(おいみさん)」とも呼ばれ、祭の期間中は、歌舞音曲、喧騒、造作等も慎む禁忌の祭とされた。 記録に残るところ、祭は陰暦10月11日から25日までの15日間行い11日から17日までが上忌で準備期間としての散祭(あらいみ)、18日から25日までが下忌で致祭(まいみ)とされ下忌の方が重儀で18日に神迎神事を行い境内に注連縄を引き渡すと25日の神等去出神事が終わるまで謹慎斎戒に服した。  厳重な物忌みの祭であった為、時代が下るにつれて、間に中根と呼ぶ緩和日を3日間設け、斎戒を解くようになる。 佐陀大社は八百万の神々の母神である伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っている。 陰暦十月は伊弉冉尊が神去った月であるという卜部家の説により、八百万の神々は毎年この月になると当社にお集まりになり母神を偲ばれるのだとされ、この祭りを「お忌祭」と呼び、中根を中陰の意味とした。 明治30年頃より陰暦10月を陽暦11月に改め上忌が無くなり下忌のみを執行することになり現在に至る。 中世に入ると「佐陀大明神」「佐陀大社」「佐陀三社大明神」などと呼ばれるようになった。 明治に入り現在の「佐太神社」に改称した。 9月25日の御座替祭の前夜に行われる佐陀神楽が知られる。 正殿、北殿、南殿に、秘説四柱を含めて12柱が祭られている。 正殿…佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。 北殿…天照大神及び瓊々杵尊の二柱。 南殿…素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱。 現在の神社側の公式見解では、正殿の主祭神である佐太御子大神とは猿田彦神のことであるとしている。 佐太大神は『出雲国風土記』に登場し、神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれたという。 現在では、神名の「サダ」について、猿田の本来の読みであるという説、狭田すなわち狭く細長い水田の意とする説、岬の意とする説、等のほか諸説がある。 佐太神社は、中世に、比婆山の伊奘冉尊の陵墓から佐太神社境内南側の奥の三笠山に、伊弉冉尊の陵墓である比婆山の神陵を分霊し祀ったので、「伊弉冉社」としても信仰されてきた。 三笠山に続く石段を50メートルばかり登って行くと磐境(いわさか)があり、伊弉冉尊を祀る母儀人基社(はぎのひとのもとしゃ)が鎮まる。  この地は古代から祭祀の対象とされ、社殿創建以前の御神座であったと考えられるので、最も、霊威のある地ともいえるであろう。、 伊奘冉尊が多くの国々を産んだ事に因み、古くから子宝、安産の神として厚く信仰された。 当社から東へ100メートル離れた飛地に二つの社が背を向けて建っているのが、本社北殿の摂社にあたる田中神社で、磐長姫命と木花開耶姫命の姉妹を祀る。 佐太神社の御本殿に向かっているのがいるのが木花開耶姫命を祀る西社で縁結び・安産の御神威を、背を向けて建つ東社は磐長姫命を祀り、縁切り・長寿の御神威を持つ。 これは本社北殿の御祭神瓊々杵尊との物語りに由来している。 瓊々杵尊は姉の磐長姫命と妹の木花開耶姫命を娶りますが、姉は容姿が醜かったので親元へお返しになったというもので、縁切りの御神威がある神社は全国的にも珍しい。 男女の悪縁をはじめ、なかなか断ち切れない様々な悪縁を除くため、参拝、御祈念に訪れる方が絶えない。 また、現在本社南殿、北殿の中に祀られおり一般に公開されていないが、佐太神社の御神秘として様々な記録が残っているのが、早人像。 『佐陀大明神縁起』によると、早人とは元寇の際捕虜となった蒙古人八十八人で、これを当社の守護人とし、その後、木造の早人像を本殿三社の高檻に祀った。  古来より早人像が飛び去る(高檻から木像が落ちることか?)と天下に騒乱があると恐れられ、永正九(1512)年五月八日、佐太神社の七不思議の中に、早人についての神秘が記されている。 『寧古齋談叢』には、慶長八(1603)年に、龍蛇が上がらず早人像も飛び去ったとして、藩主・堀尾忠氏に謹慎すべき旨を達したが、家臣が取り合わなかった為に、忠氏が亡くなってしまうという事件が起こっている。 その後、早人像は貞享五(1688)年八月の遷宮に際して、南北の社殿の中へ遷されている。 この日は、昇殿参拝と共に、新玉の年のお火炊きが為され、新年一年の御神威をしっかりと拝受させて頂き、誠に有難い参拝となった。 #八百万の神 #出雲大社 #神社