【細川藤孝の最期】盟友・光秀を見捨てた男は、なぜ天皇に命を救われたのか?
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【細川藤孝の最期】盟友・光秀を見捨てた男は、なぜ天皇に命を救われたのか?
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盟友・明智光秀の誘いを、細川藤孝は断りました。
18年後、その城を1万5000が囲みます。
救いは、刀ではなく天皇から届きました。
1582年6月、本能寺の変。
明智光秀は使者を送り、細川藤孝に味方になるよう求めました。
藤孝は長年の盟友であり、光秀の娘・玉が嫁いだ忠興の父でもあります。
断られたあとも光秀は諦めず、6月9日、自ら筆をとって手紙を書きました。
細川藤孝は、室町幕府の幕臣の家に生まれました。
足利義輝に仕え、義輝が討たれると弟の義昭を寺から助け出し、
義昭を将軍に就けるために奔走した男です。
和歌では、三条西実枝から「古今伝授」を受けています。
古今和歌集の解釈を、師が限られた弟子にだけ伝える秘伝でした。
なぜ盟友を見捨てた男が、天皇に命を救われたのか。
そして、わずか500の兵は、なぜ1万5000の大軍を50日も食い止められたのか。
▼この動画でわかること
・細川藤孝とは何者か/三淵晴員の子が、名門細川家の養子になるまで
・足利義輝の暗殺と、弟の義昭を寺から連れ出した夜
・信長に仕えた藤孝/長岡への改姓、牛の角をつかんだ逸話、鯉とまな板
・「古今伝授」とは何か/三条西実枝から受け継いだ秘伝と、公家社会との縁
・丹後の統治/海に面して建てた宮津城と、隠居のために築いた田辺城
・本能寺の変と、光秀が6月9日に自ら書いた手紙の中身
・藤孝が剃髪して幽斎と号するまで/玉(細川ガラシャ)を丹後の山中に幽閉した判断
・秀吉が隠居した藤孝を手放さなかった理由/千利休と並ぶ文化人、薩摩・大隅・日向の検地
・1600年、田辺城の50日/500対1万5000で始まった籠城戦
・後陽成天皇の勅命と、かつての師の孫・三条西実条が運んだもの
・田辺城が関ヶ原に与えた影響/西軍1万5000が本戦に間に合わなかったこと
・孫・細川忠隆を引き取った晩年/京での余生
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※藤孝が手を取らなかった、その光秀のその後をめぐる話です
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長年の友と、一族すべての命。
あなたが細川藤孝の立場だったら、どちらの手を取ったでしょうか。
📚 本動画は複数の一般的な史料・研究にもとづいて構成していますが、
諸説ある事柄を含みます。人物の心情・逸話には後世の伝承も含まれます。
藤孝の養父が細川元常か晴広かという点、玉の命が奪われなかった理由、
田辺城の籠城が家康を有利にするための戦略だったとする説については、
いずれも諸説あります。
※画像はAIで生成したイメージです。
#細川藤孝 #細川幽斎 #田辺城の戦い