【越路吹雪】胃潰瘍と告げられた本当の病名、最期の言葉は夫への一言だった
語られざる生涯
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【越路吹雪】胃潰瘍と告げられた本当の病名、最期の言葉は夫への一言だった
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#越路吹雪 #愛の讃歌 #昭和の歌姫
越路吹雪の死因は本当に胃潰瘍だったのか。1980年11月7日、シャンソンの女王と呼ばれた越路吹雪は56歳で急逝。本名は河野美保子、元宝塚歌劇団花組トップスター、代表曲は愛の讃歌。岩谷時子との30年、夫・内藤法美に遺した最期の言葉まで、昭和の歌姫の生涯を追います。
越路吹雪の死因は本当に胃潰瘍だったのか。1980年11月7日、シャンソンの女王と呼ばれた越路吹雪は56歳で急逝。本名は河野美保子、元宝塚歌劇団花組トップスター、代表曲は愛の讃歌。岩谷時子との30年、夫・内藤法美に遺した最期の言葉まで、昭和の歌姫の生涯を追います。
1924年2月18日、東京市麹町区生まれ。父は東京電燈の技術者、5人きょうだいの3人目でした。姉の看病のため山梨の祖父母に預けられ、父の転勤で新潟へ。その土地の名が、父がつけた芸名「越路吹雪」の由来になります。長野県飯山高等女学校を中退し、1937年に宝塚音楽歌劇学校へ入学。しかし入団試験の成績は93人中73位、喫煙と門限破りで「不良少女」と呼ばれた問題児でした。
1939年の初舞台は、台詞のないたんぽぽの精の1人。そこから1943年「航空母艦」の森の石松役で注目を集め、戦争による退団者続出の中で花組トップスターへ。1946年「ミモザの花」、レコードデビュー曲「ブギウギ巴里」で戦後の宝塚最大のヒットを記録します。1951年、第1回帝劇コミック・オペラ「モルガンお雪」で国産ミュージカル女優第一号となり、同年宝塚を退団。東宝専属スターとして17年を過ごしました。
転機は1953年のパリ。エディット・ピアフの歌を生で聴いた越路は、日記に「私は負けた」と書き残します。この敗北感が生涯の原動力となり、黛敏郎が送った譜面と岩谷時子の訳詞から「愛の讃歌」が生まれました。「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」など、日本語でしか歌いたくないという彼女の要求が、数々の名訳詞を生みます。1969年からの日生劇場ロングリサイタルは1ヶ月約4万枚のチケットが数分で完売する伝説の公演となりました。
しかし舞台袖の彼女は、毎回全身が震えていました。宝塚時代から続く不眠、手放せない睡眠薬と煙草、背中に「トラ」と書いてもらう儀式。浅利慶太は「幸福であることを拒む姿勢が、あの栄光を支えていた」と語っています。三島由紀夫との関係、1970年の紅白辞退の真相、30年間1円の報酬も受け取らなかった岩谷時子の献身、そして病床で夫・内藤法美と岩谷が衝突した最後の数ヶ月。
1980年6月、激しい胃の痛みを隠したまま「古風なコメディ」の舞台を務め上げ、公演直後に緊急入院。7月8日に胃の5分の4を切除する大手術を受けますが、本当の病名は末期の胃癌でした。父も母も兄も癌で失い、毎年の検診を欠かさなかった人が、死の前年だけ多忙を理由に検査を延ばしていたのです。葬儀の後、霊柩車が中野のコスモスの原っぱへ進路を変えた理由とは。昭和を駆け抜けた1人の女性の、誰も語らなかった素顔をご覧ください。
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