【本能寺の変】信長の首が見つからず、一番得をしたのは誰か? 当時の史料をAIで照合|棺の中身と秀吉の「言い訳」
日本史考察研究所
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【本能寺の変】信長の首が見つからず、一番得をしたのは誰か? 当時の史料をAIで照合|棺の中身と秀吉の「言い訳」
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日本史考察研究所
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1582年6月17日。奈良の僧の日記によれば、焼け落ちた本能寺の跡には、明智光秀の首をはじめ、およそ3000の首がありました。けれど、そこに信長の首はありませんでした。4か月後、秀吉が取り仕切った信長の葬儀。公家の日記によれば、棺に入っていたのは「木像」でした。
今回は、信長の首(遺体)が見つからなかったことで一番得をしたのは誰か。7つの説を、研究所のAIと一緒に採点しました。1582年6月から10月の出来事を中心に、公家の日記・武将の手紙・宣教師の報告を照合し、1584年の報告や後の時代にまとめられた記録は、書かれた時期と立場を区別して使っています。「上様は無事に切り抜けた」と書いた6月5日の手紙、葬儀の前日に流れたうわさ、そして葬儀の3日後に書かれた「言い訳の手紙」も、原文で紹介しています。
あなたは、信長の首が見つからなかったことで、一番得をしたのは誰だと思いますか? コメントで教えてください。
※ 採点と考察は、今残っている記録から考えた当チャンネルの一つの推理です。点数は得の割合を示すものではありません。
■ 目次
0:00 本能寺に並んだ3000の首
1:11 本能寺の朝
2:15 検証のルールと有名な話の仕分け
3:47 説7 誰も得していない
4:13 説6 朝廷
4:37 説5 毛利
5:04 説4 細川・筒井
5:39 説3 寺
6:44 説2 徳川家康
8:01 説1 羽柴秀吉
11:14 採点結果
11:37 所長の考察
12:50 おわりに
■ 参考にした史料(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
・『大日本史料』第十一編之一(東京帝国大学文学部史料編纂所 1927)所収『多聞院日記』『公卿補任』『家忠日記』『兼見卿記』『蓮成院記録』『梅林寺文書』(羽柴秀吉 6月5日付 中川清秀宛書状)、北条氏政(6月11日付)・滝川一益(6月12日付)の書状、『本能寺文書』(織田信孝 7月3日付 本能寺宛書状) https://dl.ndl.go.jp/pid/3450624
・『大日本史料』第十一編之二 所収『言経卿記』『晴豊公記』『兼見卿記』『多聞院日記』『毛利家文書』(羽柴秀吉 7月17日付 毛利輝元宛書状)、『金井文書』(羽柴秀吉 10月18日付 信孝の家臣2名宛書状)、宣教師の報告(1584年)の訳文、贈官の綱文 https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625
・太田牛一『信長公記』(1881年刊) https://dl.ndl.go.jp/pid/781194
・村上直次郎訳『耶蘇会の日本年報』第1輯(1943)1582年11月5日付 フロイス書簡 https://dl.ndl.go.jp/pid/1918977
・『当代記』(史籍雑纂 第二、1911)※江戸時代の記録 https://dl.ndl.go.jp/pid/1912983
・大村由己『総見院殿追善記』(群書類従 第19輯、1894)※秀吉側の立場で書かれた記録 https://dl.ndl.go.jp/pid/1879838
・葬儀の費用と人数は史料ごとに違います(一万石/一万貫/銀二千枚など)。本編では一つの数字に決めていません
・『晴豊公記』の崩し字の一部は、読み方に幅があります
・日本側の史料の月日は当時の暦(旧暦)のままです。宣教師の報告の日付は、参照した訳書の西暦表記に従っています
・本編の「言い訳の手紙」は、葬儀を行った理由についての秀吉自身の説明を指す、当チャンネルの表現です
■ 画像
・豊臣秀吉像(高台寺蔵)、徳川家康像(狩野探幽筆)、細川藤孝(幽斎)像:Public domain(Wikimedia Commons)
・サムネイルは、上の史料画像をもとに加工したものです
・「イメージ」と表示した画像は画像生成AIで作成したイメージです。実際の場所・人物とは異なります
■ 音声・音楽
・VOICEVOX:青山龍星
・BGM:OpenTracks「仄青く眠る、海底遺跡」蒲鉾さちこ/「誰もいない風景」稿屋 隆
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