「豊臣秀吉は天皇を北京へ追いやる気だった」織田信長の安土城から出た「天皇の御殿」と秀吉の命令書をAIで検証【歴史の謎】
戦国AI検証録
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「豊臣秀吉は天皇を北京へ追いやる気だった」織田信長の安土城から出た「天皇の御殿」と秀吉の命令書をAIで検証【歴史の謎】
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天正20年、1592年の夏。九州の名護屋の陣から、京都の御所へ思いもよらない知らせが届きます。天皇を海の向こうの北京へお移しする。豊臣秀吉の25か条の命令書です。
比叡山を焼き、将軍を追い出した織田信長も、天下を継いだ秀吉も、天皇にだけは手を出しませんでした。よく語られる答えは、無力な天皇は倒すより利用したほうが得だった、というものです。
けれど当時の記録には、天皇の命令で止まった10年の戦いが残っていました。
今回は、当時の記録と安土城の地形、北京までの道のりのデータで、信長の京都入りから秀吉の死までの30年をAIで数え直し、天下人と天皇の関係を検証しました。
天下人が天皇を討たなかった理由の見方は、3つに分かれます。倒すより利用したほうが得だった。天下人の側も天皇の命令に救われ、代わりがいなかった。討つ相手ではなく、海の向こうへ連れて行ってでも手放せない相手だった。
あなたは、どれだと考えますか? コメントで聞かせてください。
■ 目次
0:00 はじめに
1:56 1章 秀吉の25か条の命令書には、何が書かれていたのか
6:08 2章 信長が京都に入ったとき、朝廷はどんな姿だったのか
8:49 3章 信長は、比叡山の前でどこまで追い詰められていたのか
13:04 4章 比叡山を焼いた年、信長は御所で何をしていたのか
16:05 5章 10年続いた戦いは、天皇の命令でどう終わったのか
22:17 6章 信長は、安土城に天皇を迎えようとしていたのか
26:41 7章 信長は、天皇を超えようとしていたのか
29:36 8章 秀吉は、聚楽第に迎えた天皇の前で、大名に何を誓わせたのか
35:01 9章 北京への行幸は、本当に間に合う計画だったのか
40:06 10章 なぜ信長も秀吉も、天皇を討たなかったのか
■ 主な史料
『豊臣太閤御事書』(群書類従 巻399)、『鹿苑日録』、『信長公記』(甫喜山景雄 刊 1881)、『准如上人芳蹟考』、『晴豊公記』、『聚楽第行幸記』、『多聞院日記』、『豊公遺文』、徳富蘇峰・今谷明・堀新ほかの研究
※ 出典は、動画の各場面の右下に出しています。
※ サムネイルの絵は、織田信長・豊臣秀吉の肖像画をもとにAIで作成したイメージです。
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