Перейти к содержимому

【徳川家康】本能寺の日、人生最悪のピンチ❗️家康を救ったのはだれだったのか

大人の戦国ばなし

0:00 / 0:00

【徳川家康】本能寺の日、人生最悪のピンチ❗️家康を救ったのはだれだったのか

440 просмотров · 7 дн. назад
大人の戦国ばなし
25 подписчиков
440 просмотров · 7 дн. назад
本能寺の変の日、徳川家康はわずかな家臣と堺に来ていました。家康は、どうやって三河まで生きて帰ったのか。甲賀・伊賀の山道、伊勢の海、三河の大浜まで、地図と記録で追います。 ▼この動画でわかること ・本能寺の変のとき、家康が30人あまりの家臣と堺にいたこと ・一緒に堺にいた穴山梅雪が、帰り道で殺されたこと ・甲賀の多羅尾家、伊賀・柘植の人たち、名前の残らない船頭や浜の人たちが、家康の一行を助けたと伝わること ・家康が、甲賀の侍・和田に「あなたの身の上を見放さない」と書いた誓いの手紙のこと ▼目次 0:00 冒頭 1:02 なぜ家康は、わずかな家臣と堺にいたのか 2:06 知らせを受けた家康は、何をしようとしたのか 3:21 山道に入った一行を、何が待っていたのか 5:25 甲賀の山で、誰が一行を迎えたのか 7:46 恨まれていたはずの伊賀で、何が起きたのか 10:07 海の上で、家康は何を食べたのか 11:26 大浜で、家康を待っていたのは何だったのか 14:05 助けた人たちは、そのあとどうなったのか 15:22 まとめ ▼説が分かれるところ ・通った道:伊賀の北の加太越え、御斎峠、甲賀越えなど、いくつかの説があります。動画では「伊賀・甲賀の山道」としています。 ・知らせを受けた場所:堺とする記録が多いですが、飯盛山・枚方とする書き物もあります。 ・どの日にどこに泊まったか、三河のどこに何日に着いたかは、書き物によって違います。道中の日付は「6月2日」と「本能寺から3日ほど」だけにしています。 ・家康が知恩院で腹を切ると言い出した話、服部半蔵と伊賀の者たちが守った話、多羅尾家の赤飯、矢に当たった多羅尾の息子が身を引いて一筆をもらった話、柘植の人たちの話、伊賀に残っていた人たちが恩を返した話、伊勢の商人が船を出した話、船頭が出した飯、大浜で船を押し上げた話、駆けつけた人たちが涙を流して喜んだ話は、江戸時代の書き物や家の記録に伝わる話です。 ・茶屋四郎次郎が道を開いた話は茶屋の家の書き物などが出どころで、別の書き物には逆のことも書かれています。 ・家康が和田にあてた誓いの手紙(6月12日)は当時の文書ですが、文の中に「伊賀越え」の言葉はありません。伊賀越えのお礼とするのは、後の家の記録です。 ・梅雪が何度も襲われたことと、家康が脅したり物を与えたりして通り抜けたことは、当時日本にいた宣教師フロイスの報告によります。 ▼この動画について ・画像はAIで作成し、声は音声合成です。画像の人物の顔や姿はイメージで、本人の姿ではありません。名前を出した人物は実在の人物です。 ・記録に無い想像の場面は、「ここは想像です(再現)」と出ている2つだけです。心の中の言葉(「〜かもしれません」「〜のでしょう」の所)は想像です。 ・地図は Natural Earth(パブリックドメイン)をもとに作り、道や村の位置はおおよそです。 ・まちがいに気づいたら、コメントで教えてください。確かめて訂正します。 ▼出典・参考 【史料】 ・『大日本史料』第十一編之一(東京大学史料編纂所編)  収められた記録のうち、天正日記・家忠日記・石川忠総留書・続本朝通鑑・三河物語・永日記・武辺雑談・伊賀者由緒書・譜牒餘録後編・神祖泉堺記事・家康の起請文・フロイスの報告(日本耶蘇会年報)などを参考にしました(当時の記録は天正日記・家忠日記・6月12日の起請文・フロイスの報告で、ほかは後の時代の書き物です)。 【論文】 ・藤田達生「『神君伊賀越え』再考」(愛知県史研究 9号、2005年) 【辞典】 ・コトバンク(日本大百科全書・世界大百科事典 ほか)  本能寺の変、徳川家康、穴山梅雪、伊賀の乱、茶屋四郎次郎、伊賀者、服部半蔵、白子、角屋七郎次郎、堺市、宇治田原、信楽、伊賀国 などの各項目 【博物館・自治体】 ・堺市博物館「家康と堺」 ・甲賀市の資料 【記事】 ・nippon.com(山田雄司さんのお話)、東洋経済オンライン の各記事 ▼コメントで教えてください この道で家康を助けた人の中で、あなたの心にいちばん残ったのは誰でしたか? 次に聞いてみたい戦国の話があれば、それもコメントで教えてください。 #戦国時代 #徳川家康 #伊賀越え