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【柴田勝家】本能寺から1年❗️秀吉に間に合わなかった男は、最後に何を守ったのか

大人の戦国ばなし

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【柴田勝家】本能寺から1年❗️秀吉に間に合わなかった男は、最後に何を守ったのか

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本能寺の変から1年足らず。織田家を支えてきた柴田勝家は、なぜ秀吉に間に合わなかったのか。清須会議、雪の冬、賤ヶ岳の戦い、そして北ノ庄城の最後の日まで、地図と日付で追います。 ▼この動画でわかること ・本能寺の変のとき、勝家は遠く越中にいたこと。そして山崎の戦いに加われなかったこと ・清須会議で決まったことと、信長の葬儀を秀吉が開いたこと ・雪で動けない冬のあいだに、長浜と岐阜が秀吉の側へ移ったこと ・賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家が、北ノ庄城で最後に何を守ろうとしたのか ▼目次 0:00 冒頭 0:52 本能寺の日、勝家はどこにいたのか 2:20 清須会議で、勝家は何を手にしたのか 4:07 信長の葬儀は、だれが開いたのか 4:54 雪の冬、勝家は何ができたのか 6:56 雪の中、勝家はどう動いたのか 8:51 大岩山で、何が起きたのか 9:59 秀吉が戻ったとき、何が起きたのか 11:40 府中で、勝家は利家に何と言ったのか 13:01 北ノ庄で、勝家は家臣に何と言ったのか 14:30 お市と娘たちを、勝家はどうしたのか 16:28 城を出た娘たちは、その後どうなったのか 17:18 最後に、勝家は何を守ろうとしたのか ▼説が分かれるところ ・清須会議:集まったのは勝家・秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人というのが通説ですが、堀秀政を加えて5人と書く日記もあります。会議の日は6月27日ごろとされます。 ・跡継ぎ:勝家は三男の信孝を推したといわれます。一方で、三法師が継ぐことは前から決まっていて、争ったのは代わりを務める役(名代)だったという新しい説もあります。 ・勝豊が秀吉に降った理由:雪で援軍が来なかったから、佐久間盛政と仲が悪かったから、など説が分かれます。 ・兵の数:勝家の兵を3万とするのは、勝った秀吉の手紙の数です。2万余り・1万5千余りとする書き物もあります。 ・秀吉が戻った速さ:大垣から木之本までの「13里(約50キロ)を5時間ほど」は、秀吉の側から書かれた記録(柴田退治記)の数字です。 ・前田利家が戦場を離れた理由:裏切り、前から秀吉に通じていた、裏切りではなかった、と今も説が分かれます。 ・府中で利家にかけた言葉、お市と娘たちをめぐる話、秀吉への頼みは、江戸時代の書き物(太閤記・賤嶽合戦記など)に伝わる話です。家臣に語りかけた場面は、宣教師フロイスの手紙(伝え聞き)によります。 ・年齢:勝家の年は書き物によって57〜62歳と違うため、60歳前後としています。 ▼この動画について ・画像はAIで作成し、声は音声合成です。画像の人物はイメージで、本人の姿ではありません。名前の出ない兵や人々の場面は架空です。名前を出した人物は実在の人物です。勝家の心の中の言葉(「〜かもしれません」の所)は想像です。 ・地図は Natural Earth(パブリックドメイン)をもとに作り、城や陣の位置はおおよそです。 ・まちがいに気づいたら、コメントで教えてください。確かめて訂正します。 ▼出典・参考 【史料】 ・『大日本史料』第十一編之一〜之四(東京大学史料編纂所編)  収められた記録のうち、多聞院日記・兼見卿記・秀吉の書状・秀吉事記・柴田退治記・細川忠興軍功記・太閤記・賤嶽合戦記・村井重頼覚書・フロイスの書簡(日本耶蘇会年報)などを参考にしました(太閤記・賤嶽合戦記などは後の時代の書き物)。 【辞典】 ・コトバンク(日本大百科全書・世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典・マイペディア ほか)  柴田勝家、柴田勝豊、お市の方(小谷の方)、淀殿、崇源院、前田利家、滝川一益、毛受家照、本能寺の変、清洲会議、賤ヶ岳の戦い、栃ノ木峠、柴田退治記、大村由己、里 の各項目 【自治体】 ・福井県(栃ノ木峠の案内・『福井の戦国歴史秘話』) 【記事】 ・プレジデントオンライン、Precious.jp、現代ビジネス の各記事 ▼コメントで教えてください もし、あなたが勝家の立場だったら、最後に何を守りますか? 次に聞いてみたい戦国の話があれば、それもコメントで教えてください。 #戦国時代 #柴田勝家 #賤ヶ岳の戦い