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ローマ皇帝が年老いたとき、何が起きたのか?

太古の記憶

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ローマ皇帝が年老いたとき、何が起きたのか?

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ローマ皇帝が年老いたとき、何が起きたのか? 紀元後37年3月、ナポリ湾のほとりミセヌムの別荘で、夕食が終わろうとしている。席を立った医者が、別れの挨拶のふりをして老いた主人の手に口づけをする。ただし、その指先は手首の脈に当てられていた。皇帝は気づく。けれど何も言わず、宴をもう一度始めるよう命じた。皇帝が恐れたのは死ではなく、「死んだ」と世間に知られる瞬間だった。 ■ この動画で辿る3つの舞台 【第1幕:衰えを、仕組みで包んだ創業者】 ・スエトニウス『ローマ皇帝伝』(紀元後2世紀初め) — https://en.wikipedia.org/wiki/Suetonius アウグストゥスの晩年を細かく書き残した伝記。冬はチュニカを4枚重ねた上に厚いトガをまとい、夏はつばの広い帽子で日差しを避け、遠出は夜に輿で進んだという。書かれたのは死の約100年後だが、著者は皇帝の文書に触れられる立場にいたため、手紙などを参照できたと考えられている。 ・カッシウス・ディオ『ローマ史』(3世紀) — https://en.wikipedia.org/wiki/Cassius... 紀元前23年、重病のアウグストゥスは印章の指輪を腹心アグリッパに、軍と財政の記録をピソに渡した。国家の中身が病床で手から手へ渡ったことになる。紀元後13年には少人数の顧問団に元老院決議と同じ効力が与えられ、ティベリウスにも属州統治や人口調査の権限が与えられたと、ウェレイユス・パテルクルスは書く。今の言葉でいえば後継者計画にあたる。 ・タキトゥス『年代記』(2世紀初め) — https://en.wikipedia.org/wiki/Tacitus アウグストゥスは南イタリアのノラで亡くなる。妻リウィアは家の周りに見張りを置き、容態は持ち直していると知らせ続け、ティベリウスの到着後に死と継承を同時に発表したという。ほぼ同じ頃に孫のアグリッパ・ポストゥムスが殺されるが、誰の命令かは、タキトゥス自身も断定していない。毒の噂は、ディオが噂として記すにとどめている。 【第2幕:体から書類へ移った権力】 ・カプリ島の皇帝 — https://en.wikipedia.org/wiki/Villa_J... ティベリウスは55歳で即位し、紀元後26年、67歳でローマを離れて二度と市内に入らなかった。島には名前を持つ十二の別荘があったとタキトゥスは伝える。スエトニウスは顔に吹き出物が広がった老人の姿を描くが、敵意のにじむ記述なので割り引いて読む必要がある。医者を嫌い、「30歳を過ぎたら何が体に良いか自分で分かるはず」が口癖だったとされる。 ・セイヤヌスの失脚(紀元後31年) — https://en.wikipedia.org/wiki/Sejanus 島からの一通の手紙が、首都で最も強い男を一日で破滅させた。ディオによれば、手紙は穏やかに始まり、読み進むうちに非難へ変わっていき、議員たちは一人また一人とセイヤヌスの隣の席を離れたという。手紙を届けたのは新しい近衛長官マクロで、セイヤヌスはその日のうちに処刑され、幼い子供たちまで殺された。皇帝の体が遠ざかるほど、名前で書かれた書類を扱う秘書や解放奴隷たちの力が増していった。 ・ミセヌムの最期(紀元後37年) — https://en.wikipedia.org/wiki/Misenum 冒頭の夕食のあと、皇帝が息絶えたと見えて後継者ガイウス(のちのカリグラ)のもとへ祝いの人々が集まる。そこへ「皇帝が意識を取り戻し、食事を求めている」と知らせが届き、部屋は凍りついた。マクロが寝具を老人の上にかぶせたと伝える史料もあるが、別の最期を伝える史料もあり、確かなのは3月16日に時代が終わったことだけである。 【第3幕:後継者を選ぶ仕組みと、その代償】 ・ハドリアヌス(紀元後136〜138年) — https://en.wikipedia.org/wiki/Hadrian 出血とむくみを伴う、水腫に近い病だったと考えられている。養子にした後継者が先に亡くなると、約2か月で新しい後継者アントニヌスを探し、その次の世代のマルクスとルキウスまで養子にさせた。一方で、身内の老人セルウィアヌス(90歳)とその孫を死に追いやり、毒薬や剣を求めても誰も従わなかったと伝わる。ただし、ディオの原本はほとんど失われ、私たちが読めるのは11世紀の修道士クシフィリノスの要約である。 ・アントニヌス・ピウスと『ローマ皇帝群像』(4世紀ごろ) — https://en.wikipedia.org/wiki/Histori... 23年の治世でイタリアの外へ出ず、161年に74歳で亡くなった。背が曲がると菩提樹の薄い板を胸に当てて立ち、朝の挨拶の前には乾いたパンを食べたという逸話がある。ただし、この書は成立の事情に疑問が多く、細部は慎重に読む必要がある。それでも、毎朝の挨拶が皇帝の体力試験だったことは読み取れる。 ・セプティミウス・セウェルス(紀元後208〜211年) — https://en.wikipedia.org/wiki/Septimi... 痛風を患い、輿に乗ってブリタニアへ向かう。ディオによれば、遠征中に長男カラカラが背後から父を刺そうとし、皇帝は剣を息子の前に置いて「殺したいなら今ここでやれ」と迫ったという。最後の助言は「仲良くすること、兵士を富ませること、他は気にするな」。同じ年の暮れ、カラカラは弟ゲタを母の腕の中で殺させたと考えられている。 ・ディオクレティアヌスの退位(紀元後305年) — https://en.wikipedia.org/wiki/Diocletian 60歳ほどで、生きたまま自分の意思で帝位を降りた、ほとんど唯一の例とされる。理由は病気だとラクタンティウスは書くが、彼はディオクレティアヌスを恨むキリスト教徒の著者で、ガレリウスの圧力があったとも記している。退位後に暮らしたスプリトの宮殿は、退位の前から造られていたと考えられている。結果は皮肉で、引退を支えるはずだった四帝の仕組みは、彼が去ると数年のうちに内戦へ崩れた。 ・ネルウァからマルクスへ — https://en.wikipedia.org/wiki/Five_Go... 子がなく立場も弱かったネルウァは、近衛隊に屈辱を受けた直後、軍の信頼が厚いトラヤヌスを養子にした。ここから、血筋ではなく選抜で続く80年余りの安定が始まる。後継者はカエサルの称号と民政の権限、属州の命令権を生前に受け取り、体が消えても役目だけが次の体へ移る形だった。この型は、マルクスが実の息子コンモドゥスを共同皇帝にしたとき、あっけなく壊れる。 ・日本の譲位と院政(697年・1086年・2019年) — https://en.wikipedia.org/wiki/Cloiste... 持統天皇が孫の文武天皇に位を譲り、のちに白河天皇が幼い堀河天皇に譲って院政を敷いた。日本は退位を、権力を手放す行為ではなく、権力を老いた体から切り離す道具にした。ローマにはその道具がなく、2019年には、およそ200年ぶりの天皇の生前退位が行われた。 ■ ひとこと 脈を隠す、知らせを止める、後継者に権限を前借りさせる、兵士には手当を払う。どれか一つが崩れれば、すべてが揺れる仕組みでした。ミセヌムの夕食の演技は、その全部を最後の数日だけつなぎとめるための仕事だったのです。ただし、この仕組みは誰かの死の上に立っていました。説明することは、正当化することではありません。 国や組織の指導者の健康は、どこまで国民に知らされるべきだと思いますか? ぜひ、コメント欄で教えてください。