Перейти к содержимому

滅んだはずの小田原北条氏が、280年後の明治まで大名だった理由

生き残りの日本史

0:00 / 0:00

滅んだはずの小田原北条氏が、280年後の明治まで大名だった理由

16 898 просмотров · 1 дн. назад
生き残りの日本史
123 подписчика
16 898 просмотров · 1 дн. назад
天正18年(1590)7月11日、小田原城下で北条氏政と弟の氏照が腹を切ります。教科書の小田原北条氏は、たいていここで終わります。ところが当主の氏直は死んでおらず、北条の名は明治2年(1869)まで大名として続きました。 滅んだはずの家は、なぜ280年も続いたのか。秀吉はなぜ、当主を殺さず隠居の父を殺したのか。一族と家臣はどこへ行ったのか。北条の名を、誰が、どこで守ったのか。 『家忠日記』、江戸幕府がまとめた系譜、自治体の資料をたどり、開城と切腹、氏直の高野山と死、一門と家臣の行き先、河内狭山の北条家12代までを、記録に残る最後の一人まで追います。 【目次】 0:00 死んだのは、当主ではなかった 1:19 城の中で、何が起きていた? 2:35 誰が、城を出た? 3:44 氏政と氏照は、どこで? 4:38 なぜ氏直だけ、殺されなかった? 6:14 赦免と、氏直の死 7:42 一門の行き先と、家康に降った北条 10:50 家臣たちの行き先 12:44 兄を介錯した弟は、その後? 14:24 北条の家は、叔父へ引き継がれた 15:53 12代続いた家と、小田原の墓 17:30 秀吉は、どこで線を引いたのか 【主な出典・参考資料】 [H04] 松平家忠 著、坪井九馬三・日下寛 校『家忠日記』第5(吉川半七、1897年) この動画で参照した内容:氏直が7月5日に陣へ走り入り「関白様へ御侘言」したこと、6日の城の受け取りに榊原康政が来たこと、12日に高野山行きが決まり21日に発ったと聞いたこと [H02] 『当代記』(国書刊行会『史籍雑纂』第2、1911年) この動画で参照した内容:松田憲秀の内通と押し込め、13歳の末子の死、氏直が「父の命に背いて」出たこと、大道寺の誅戮 [H01] 東京大学史料編纂所 編『史料綜覧』巻12(印刷局朝陽会、1953年) この動画で参照した内容:秀吉が氏直の死を許し氏政・氏照らに自殺を命じたこと、田村安清の家での自殺、一条戻橋、「徳川家康ノ女婿タルニ依リ」高野山へ放たれたこと、氏直の死、叔父・氏規に家督を継がせ河内狭山を与えたこと(綱文) [H05・H21] 堀田正敦 編『寛政重脩諸家譜』第3輯(國民圖書、1923年)ほか第2・4・5・6・7輯 この動画で参照した内容:家康の断り、氏政・氏照の最期(53歳・51歳)と氏規の介錯、高野山の供、赦免と1万石、督姫の再嫁と娘の早世、氏邦・氏忠・氏房・氏勝・氏重の行き先、大道寺・板部岡・山角・間宮・安西の旧臣、氏規と家康の旧縁、河内の領地、氏盛・氏信と狭山藩12代 [H08] 近藤瓶城 編『史籍集覧』第5冊(近藤出版部、1925年)所収『関八州古戦録』 この動画で参照した内容:秀吉が「氏直は家康の婿だから死刑を許す」と言ったという軍記物の語り、日付の違い [H09・H26] 間宮士信 等編『新編相模国風土記稿』第2輯 足柄下郡(鳥跡蟹行社、1885年。原本は1841年) この動画で参照した内容:早雲寺の北条氏の墓五基と、寛文12年(1672)の氏治の再建 [H22・H37] 井上正雄 著『大阪府全志』巻之4(大阪府全志発行所、1922年)、堺市「法雲寺山門・天王殿・大雄宝殿・開山堂・方丈・鎮守堂」 この動画で参照した内容:狭山陣屋の位置、法雲寺が狭山藩北条家の菩提所で早雲を祀る堂があること、明治2年12月26日の廃藩と堺県、法雲寺が今の堺市にあること [H13・H32] 大阪狭山市「大阪狭山市の歴史」「大阪狭山の歴史(年表)」 この動画で参照した内容:1616年の陣屋、石高約1万1千石、藩が12代続いたこと、明治2年の廃藩 [H35・H36] 神奈川県「あしがら観光ナビ」(早雲寺)、箱根町「湯坂道」 この動画で参照した内容:秀吉が小田原攻めで早雲寺に本陣を構えたこと、早雲寺が一度消失したこと [H12・H33] コトバンク収録の事典項目「北条氏邦」「北条氏房」「北条氏恭」「北条氏規」「北条氏勝」「狭山藩」ほか この動画で参照した内容:氏邦・氏房の没年と年齢、氏規が駿府で家康と知り合ったという伝え、氏恭が明治天皇の侍従を務めたこと、廃藩の理由 [H23・H24・H07・H29] 『藩制一覧』下巻(日本史籍協会、1929年)、『華族名鑑』(博文館、1894年)、『異本小田原記』(国史研究会『室町殿物語 足利治乱記 異本小田原記』、1914年)、徳富猪一郎『近世日本国民史』〔第6〕(民友社、1921年) この動画で参照した内容:狭山藩の石高の違い、氏恭の子爵、松田憲秀の最期の説の違い、成田氏長のその後 【説明上の補足】 ・『家忠日記』『史料綜覧』『当代記』『寛政重脩諸家譜』第3輯などは、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本を、要所を画像で確かめて読んでいます。『関八州古戦録』『異本小田原記』『藩制一覧』『華族名鑑』と、第3輯以外の『寛政重脩諸家譜』は文字認識の結果で読んだ範囲で、原本は見ていません。『史料綜覧』は綱文で、典拠の日記は読んでいません。 ・氏直が城を出た日は、『家忠日記』と『史料綜覧』が7月5日、軍記物と風土記稿が6日、『当代記』は「七月中旬」です。走り入った陣は、『家忠日記』が羽柴(滝川)雄利の陣、『史料綜覧』は黒田孝高を頼ったと書きます。 ・小田原を発った日は、『家忠日記』が21日(伝聞。12日は行き先が決まった日)、『寛政重脩諸家譜』と『史料綜覧』は12日、『関八州古戦録』は20日です。 ・松田憲秀の最期は、『当代記』が秀吉の斬罪、『史料綜覧』が自殺の命令、『関八州古戦録』と風土記稿が5日に氏直が誅したと書き、『異本小田原記』は6日の生害とします。大道寺の名を『寛政重脩諸家譜』は政重と書きます。 ・氏直の没地は『史料綜覧』が大坂、『寛政重脩諸家譜』が天野で、官名も左京大夫・右京大夫に分かれます。『異本小田原記』は文禄元年(1592)・31歳と書き、死因を疱瘡とするのは『関八州古戦録』だけなので動画では言っていません。 ・『史料綜覧』は氏勝も氏直に従ったと書きますが、『寛政重脩諸家譜』は4月28日に家康に降ったと書くため、動画は後者に従いました。氏勝の領地は、系譜の本文が下総佐倉、小注・風土記稿・事典が岩富と書きます。 ・氏房の没年(天正20年4月20日)と28歳は事典の記載です。病死とする記述は『関八州古戦録』(疱瘡)で、事典の項目に死因は書かれていません。 ・氏規は、『寛政重脩諸家譜』と世界大百科事典が氏康の四男、日本大百科全書が五男とします。 ・氏盛の下野の4千石は、氏直の遺領の相続ではなく、天正19年11月9日に秀吉が氏直の旧領の中から与えたものと『寛政重脩諸家譜』にあります(事典は氏直の養子と説明)。氏規の加増後の石高は、系譜が6,980石余、大阪狭山市の年表が6,988石です(動画は「およそ7千石」)。 ・狭山藩の石高は、大阪狭山市が約1万1千石、『寛政重脩諸家譜』と『華族名鑑』が1万石、『藩制一覧』が11,615石余、事典が1万石余と書きます。藩の始まりも、氏盛が遺領を継いだ1600年、陣屋を築いた1616年(大阪狭山市)、1万石となった1661年(事典)と分かれます。10代の名を『大阪府全志』は氏之と書きます。 ・早雲寺の墓は、風土記稿が「五基」と書き、氏綱以外の葬地は確かでないとします。再興の年は、神奈川県が1627年、風土記稿が慶安元年(1648)の朱印に触れます。 ・廃藩の理由は事典の説明です。氏恭の子爵は『華族名鑑』(氏名の字が崩れ、生年月日で氏恭と同定)、侍従は事典によります。大阪狭山市の年表は、河内の領分は堺県、近江の領分は大津県に入ったと書きます。 ・画面だけで触れた旧臣のうち、松田直長は文禄4年(1595)から家康に仕え、中田正次は八王子に閑居ののち家康の鷹匠となり(『寛政重脩諸家譜』)、成田氏長は翌年に下野烏山3万石で蒲生氏郷に属したと『近世日本国民史』が書きます。土着した旧臣の数は、系譜が旗本・御家人の家しか載せないため分かりません。 ・日付は当時の暦、年齢は数え年、280年は1590年から1869年までのおよその数です。小田原の陣・東海道・河内の略図は模式で、位置や距離は実測ではありません。肖像は後の時代の作や写しで、生前の姿とは限りません。 ・秀吉が誰を殺し誰を生かしたかを決めた理由を書いた史料はなく、動画の「線」は処遇の一覧から見える一つの読みです。 【関連する回】 【秀次一族の末路】三条河原の34人と、大正天皇の皇后につながった秀次の姪 【武田家の末路】41人になった勝頼と、119年後に江戸城へ戻った武田の名 【豊臣家の末路】大坂落城のあと、秀頼の子どもたちはどうなったのか? 【素材・音声等のクレジット】 史料画像(特記以外は Wikimedia Commons から) 相州小田原城図(国立国会図書館蔵『日本古城絵図』) 北条早雲像・北条氏綱像・北条氏康像・北条氏政像(小田原城天守閣蔵) 北条氏政像・北条氏直像(法雲寺蔵) 北条氏直像(早雲寺蔵) 北条氏照(『義烈百人一首』、信州地域史料アーカイブ、CC BY 4.0) 豊臣秀吉像(高台寺蔵) 徳川家康像(伝狩野探幽、大阪城天守閣蔵) 督姫像(東京国立博物館蔵) 池田輝政像(林原美術館蔵) 石垣山城 本丸跡(Tak1701d 撮影) 高野山 壇上伽藍(663highland 撮影、CC BY 2.5) 金剛峯寺(DimiTalen 撮影、CC0) 八王子城の曳橋と御主殿石垣(Mocchy 撮影) 『寛政重脩諸家譜』第3輯(国立国会図書館デジタルコレクション) 狭山池(shikabane taro 撮影、CC BY 3.0) 三つ鱗(Slady 作図) 早雲寺惣門(Suikotei 撮影、CC BY 4.0) 明治天皇 ナレーション:Google Gemini 3.8 Flash TTS(ja-jp-storyteller-4)による合成音声 映像・BGM・効果音:チャンネルのオリジナル(史料画像のほかはプログラムで作図・合成)