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【上田合戦】真田はなぜ、徳川の大軍に勝てたのか|「1300対40」は勝った側の数だった

タイムウォッチャー

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【上田合戦】真田はなぜ、徳川の大軍に勝てたのか|「1300対40」は勝った側の数だった

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天正13年(1585)閏8月2日、信濃の上田城で、真田昌幸は徳川家康の軍勢を退けました。「7千の徳川を2千の真田が破った。討たれた徳川は1300、真田は40」とよく語られます。ところが、当時の記録をたどると、兵の数は書かれておらず、「1300」は勝った真田の側の手紙の数でした。真田はなぜ、徳川の大軍に勝てたのか。そして、この勝ちは真田に何をもたらしたのか。 この動画では、上杉景勝の誓いの書、真田信幸の手紙、徳川の家臣・松平家忠の日記、秀吉の手紙、従軍した大久保忠教の『三河物語』、そして後の本(真田家の覚え書きと書き上げ・加沢記・上田軍記・烈祖成績・明治の家譜・大正の講談)を、国土地理院の地形図の上に並べて見比べます。 書斎の「案内役」が話の入口と答えをご案内します。人物の台詞は、当時の手紙に書かれている文言を今の言葉に直したものです(作った会話は入れていません)。 0:00 はじめに 1:22 第1章 沼田と上杉 3:08 第2章 閏8月2日 7:01 第3章 後から足された話 9:41 第4章 勝ったあとの手紙 11:02 おわりに ■ シリーズ:戦国から江戸へ(年の順)    • 戦国から江戸へ(年の順)   ■ 関連 長篠の戦い|鉄砲の三段撃ちは、本当にあったのか    • 【長篠の戦い】鉄砲の三段撃ちは、本当にあったのか|信長の家臣の記録は「千挺ばかり」   三方ヶ原の戦い|家康は、なぜ城を出て信玄と戦ったのか    • 【三方ヶ原の戦い】家康は、なぜ城を出て信玄と戦ったのか|勝った信玄は「三河へ向かう途...   武田家|最強と呼ばれた武田は、なぜ7年で滅んだのか    • 【武田家】最強と呼ばれた武田は、なぜ7年で滅んだのか|勝頼は「二千でも三千でも」と書いた   川中島の戦い|信玄と謙信は、なぜ5度も戦って決着しなかったのか    • 【川中島の戦い】信玄と謙信は、なぜ5度も戦って決着しなかったのか|どちらも「勝った」...   ■ この動画の史料 ・上杉景勝の起請文(天正13年7月15日。上杉家に残った控え) ・真田信幸の書状(写し)・羽柴秀吉の書状(昌幸あて・景勝あて) ・『家忠日記』(松平家忠の自筆の日記) ・『当代記』(当時の記録を取り込み、出来事を年ごとに書き留めた江戸初めの本) ・『史料綜覧』 ・大久保忠教『三河物語』(上田の戦いに加わった徳川の家臣が、およそ40年後に書いた本) ・『真田家武功之記』(覚え書き・書き上げ)・『加沢記』・『上田軍記』・安積澹泊『烈祖成績』・『武家事紀』・真田家の家譜・『正伝 真田三代記』(1913年)(後の時代の書物として、出どころを断って紹介) ■ 気をつけて読んだところ ・合戦の様子を書いた当時の記録は、ほとんどありません。当時の文書で合戦の結果に触れるのは、真田信幸の手紙(写し)の「1300余り討ち取った」です。勝った側からの戦果の知らせです。 ・合戦の場面は『三河物語』によっています。著者は徳川方で従軍していますが、書いたのはおよそ40年後で、負けた側の回想です。図の中でもそう断っています。 ・『家忠日記』には、上田の戦いの記事がありません。戦いの当日、家康は駿府にいました。 ・兵の数「徳川7千・真田2千」は当時の記録に無く、今回見た範囲で最も古いのは、真田家が書き上げた記録(1658年ごろ)の「先手7千」です。 ・「1300対40」の1300は信幸の手紙の数、40は上田軍記の数で、どちらも真田の側の数です。上田軍記の中で、すでに二つが並んでいます。 ・千鳥掛けの柵・神川の水・碁を打っていた話は、当時の記録にも『三河物語』の上田の場面にも無く、真田家の覚え書き(1644年ごろ)から後の本に出てきます。時代が下るほど、話は詳しくなります。 ・昌幸自身の言葉は、当時の文書には残っていません。「沼田は我らの手柄で取った」は『三河物語』が伝える言葉です。 ・家康が昌幸に沼田を北条へ渡せと命じた文書は、今回調べた中には見つかっていません。 ・徳川勢が引き揚げた理由を、石川数正が秀吉のもとへ移ったこととする当時の記録はありません(引き揚げは閏8月下旬〜9月、数正は11月13日)。 ・秀吉が昌幸に送った10月17日の手紙は、上田合戦の年とする説と、2年前とする説があります。 ・地図の徳川勢の進んだ道・神川を渡った所は推定です。国分寺は今の寺の位置、城の形は今の縄張り(江戸時代に建て直した城)です。 ・日付は当時の暦(和暦)です。天正13年閏8月2日は、今の暦(グレゴリオ暦)では1585年9月25日にあたります。 ■ 人物の絵について 人物の絵と案内役は、史料の記述と肖像画の特徴をもとに生成AIで描いた想像図です。 ■ 地図・図について 地形図は国土地理院の標高データ(地理院タイル)から作図しました(今の地形)。川の線は OpenStreetMap の今の川筋です。地図の薄い線は現在の県境です(国土数値情報「行政区域」を簡略化したデータ)。川筋のデータ © OpenStreetMap contributors(ODbL)。 ■ 画像(ウィキメディア・コモンズ) 沼田公園(沼田城跡) CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 真田昌幸像 パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 駿府城(古写真) 江戸村のとくぞう CC BY-SA 4.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 上田城の西櫓からの眺め Fg2 パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 上田城跡 くろふね CC BY 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 上田城跡 尼ヶ淵の石垣 CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 上田城 南櫓 Suikotei CC BY-SA 4.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 信濃国分寺跡 Saigen Jiro CC0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 神川(上田ローマン橋) photo: Qurren (talk) CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 丸子城跡の物見櫓 Tmv CC BY-SA 4.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 小諸城跡 663highland CC BY 2.5 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 大坂夏の陣図屏風の大坂城(部分) Osaka Castle Museum パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 歌川国芳「川中島百勇将戦之内 真田喜兵衛昌幸」(サムネイル) 歌川国芳 パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... #上田合戦 #真田昌幸 #真田信幸 #徳川家康 #戦国時代 #日本史