足利義政の銀閣は、黒い建物でした
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足利義政の銀閣は、黒い建物でした
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京都・東山の銀閣。正しくは慈照寺の観音殿です。足利義政は銀を貼るつもりだったがお金が足りなかった、貼った銀がはがれ落ちた、とよく言われます。ところが二〇〇七年の調べで、建てたときから銀箔は貼られていなかったことが確かめられています。
では、なぜ銀閣と呼ばれているのか。義政は何のためにこの山荘を作ったのか。父を殺され、子どものまま将軍になった義政の一生から並べ直しました。
■ 負け続けた将軍
・一四三六年、六代将軍足利義教の子として生まれました
・一四四一年、父の義教が赤松満祐の屋敷で殺されます(嘉吉の乱)。兄の義勝も二年後に幼くして亡くなり、八歳で跡継ぎに選ばれました
・一四四九年、数えで十四歳で八代将軍になりました
・一四六四年に弟の義視を次の将軍と決めた翌年、日野富子が義尚を産みます。この跡継ぎ争いに大名の争いが重なり、一四六七年に応仁の乱が始まりました
・義政は両方に戦いをやめるよう命じ、和平の働きかけもしましたが、止められませんでした。一四七三年の暮れに将軍の座を九歳の義尚に譲り、戦いが終わったのは一四七七年です
■ 東山殿
・一四八二年、京都の東の山のふもとで山荘の造営を始め、翌年移り住みました。手本は西芳寺の庭だったとされています
・庭師の善阿弥、絵師の狩野正信・土佐光信らを召し抱えました
・一四八六年に建てた東求堂の北東の隅に、四畳半の書斎・同仁斎があります。違い棚と付け書院は、座敷飾りとして残っているものの中でいちばん古いとされ、書院造の源流とみなされています
・観音殿(銀閣)の棟が上がったのは一四八九年三月。義政は翌年一月七日、数えで五十五歳で亡くなりました
■ 銀閣という名前と、建てたときの色
・観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代からで、銀閣寺の名が見える早い本は一六五八年の『洛陽名所集』です
・修理のときの調べで、二階は内も外も黒い漆塗りだったとされ、軒の下からは赤や青の色の跡も見つかっています
・一五五〇年の戦いで寺は焼け、残ったのは観音殿と東求堂だけでした。庭の銀沙灘と向月台がいまの形になったのは江戸時代の後半とされています
■ この回で言わなかったこと
・なぜ黒い漆だったのか(記録が無いため)
・義政が茶の湯をどこまで自分でしていたか
■ 確かなことと、そうでないこと
断定したのは、二〇〇七年の調べで創建時から銀箔が無かったと確かめられたこと、銀閣の名が江戸時代からであること、二階が黒漆塗りだったとされること、同仁斎が現存最古の座敷飾りとされることです。
「お飾りとして育てられた」は見方の一つとして、同仁斎で茶をたてていたかは「かもしれない」として紹介しました。「金閣があるなら銀閣もあるはず」という流れで話が広まった、というのは見立てです。
歴史の帳では、教科書やドラマで一行にまとめられている話を、記録に残っているところまで戻して並べ直しています。