毛利元就は、三本の矢の話をしていません
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毛利元就は、三本の矢の話をしていません
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一本の矢なら折れるが、三本を束ねると折れない。毛利元就が三人の息子にそう教えた、という話はいまもよく知られています。ところが、元就が三人の息子にあてた手紙は、いまも残っています。長さはおよそ三メートル、十四か条。その中に、矢の話は出てきません。しかも、元就が亡くなったとき、長男の隆元は八年前に亡くなっていました。
では、本物の手紙には何が書かれていたのか。なぜ元就は、兄弟が離れるなと何度も書いたのか。元就自身の兄弟の話から並べ直しました。
■ 城を取られた次男
・元就は一四九七年、安芸の吉田に生まれた毛利家の次男です。五歳で母を、十歳で父を亡くし、城と領地を家臣の井上元盛に取り上げられました。父の側室だった杉の大方が育てました
・兄の興元が一五一六年に急死し、二歳の幸松丸の後見に。一五二三年に幸松丸が亡くなり、二十七歳で家を継ぎました
・一五二四年、家臣に担がれた異母弟の相合元綱を討っています
■ 大内と尼子のあいだで
・長男の隆元を大内氏の山口へ人質に出しました。隆元は大内義隆の前で元服しています
・一五四〇年、尼子の約三万に郡山城を囲まれ、約三千で守り抜きました。二年後の出雲攻めでは大敗しています
・三男の隆景を小早川家に、次男の元春を吉川家に入れました
・一五五五年、厳島の戦いで陶晴賢の約二万を約四千で破りました
■ 三子教訓状(一五五七年十一月二十五日)
・周防の富田の寺で、隆元・元春・隆景の三人にあてて元就が自分で書いた手紙です。毛利博物館に残り、重要文化財になっています
・三条目に「三人の仲が少しでも離れれば、三人とも滅びると思え」という意味のことが書かれています
・ほかに、母の妙玖の供養、娘の五龍のこと、多くの人を殺してきた報いへの心配、才もないのに生き延びてきた不思議、十一歳で授かった念仏と朝日を拝むこと、厳島の神のことが書かれています
・翌日、三人は名を連ねて返事を出しています
■ 三本の矢の話
・隆元は一五六三年に急死しました(毒殺の話は百年以上あとの軍記物に出てくるもので、確かめられません)
・元就は一五七一年六月、郡山城で亡くなりました。枕もとにいたのは隆景と孫の輝元で、元春は出雲にいました
・江戸時代の聞き書きに、死の床で子どもたちに束ねた矢は折れにくいと教えた話があり、これが三人と三本の矢の話に変わっていったと考えられています
■ この回で言わなかったこと
・三子教訓状の各条の原文(言い回しは意味をとって話しました)
・束ねた矢の話がいつ「三本」になったか(時期を確かめていません)
■ 確かなことと、そうでないこと
断定したのは、三子教訓状の日付・あて先・十四か条であること、矢の話が書かれていないこと、隆元が元就より先に亡くなったこと、元就の死の床にいた人です。
毒殺の話、三本の矢の話が変わっていった経緯は、伝えや説の形にとどめました。
歴史の帳では、教科書やドラマで一行にまとめられている話を、記録に残っているところまで戻して並べ直しています。