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志ん朝 小遊三 米朝 枝雀 狙え!二匹目の泥鰌【落語】五人廻し 六尺棒 七度狐 八五郎坊主

落語ch:荒獅子男乃助

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志ん朝 小遊三 米朝 枝雀 狙え!二匹目の泥鰌【落語】五人廻し 六尺棒 七度狐 八五郎坊主

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落語ch:荒獅子男乃助
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0:48:五人廻し 28:47六尺棒 53:22七度狐 1:27:37八五郎坊主 1:48:27エンドトーク 「五人廻し」 古典落語の演目。廓噺に分類される。明治の落語速記雑誌「百花園(1889年 - 1900年ごろ刊行)」には、「小夜千鳥(さよちどり)」の演題で禽語楼小さんによる口演が掲載されているという。明治末期から大正(1910年代)に、初代柳家小せんが、今日の演出を完成した。6代目三遊亭圓生は小せんのスタイルを受け継ぎ、5代目古今亭志ん生も小せんから教えられている。川柳に「人は客我が身は間夫と思う客」「女郎買いふられて帰る果報者」五人の客を取った喜瀬川花魁、杢兵衛大尽の部屋へ入ったきりで他の客の廻し部屋には廻って行かない。こうなると苦情処理係の若い衆は忙しい。初めの客は料理だけ食って出て行ったきり待てど暮らせど姿を見せない三日月女郎、いや今宵は皆既月食か喜瀬川を寝たふりをして待っている男の部屋。若い衆「・・・もうじきお見えになります。しばらくご辛抱を・・・吉原には吉原の法、廓の法がございます・・・」でカチンときた・・・。 三代目 古今亭 志ん朝 当初は歌舞伎役者を志しており、噺家になる意志はなかったが父の志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けない」新国劇に入りたいと言うと、母親から「怪我をするからダメ」「噺家は扇子一本で偉くなれるんだから」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた 「六尺棒」 古典落語の演目。江戸落語・上方落語の両方で演じられている。遊廓通いをやめない商家の若旦那を父親が叱ろうとして起きる騒動を描く。原話は不明だが、文化4年(1807年)には口演記録が残っている。道楽息子の幸太郎が吉原から帰宅して目立たないように家に入ろうとすると、気付いた父親の幸右衛門がわざと幸太郎の友人に話しかける形で「あんな道楽者は勘当したと伝えてくれ」と口にする。幸太郎が「家を他人に取られるのは嫌だから火を付ける」と答えると、驚いた父親は六尺棒を持って表に出たが、すでに逃げた後だった。父親は後を追うものの体力の差で追いつくことができず、町内を一回りした幸太郎は先に自宅に戻り、父親が開けたままの扉から中に入って扉を閉めて心張り棒をかけてしまう。遅れて戻ってきた父親が扉を叩くと幸太郎は、さきほどの父を真似て父の友人に話す体で「あの分だと身上をどんなに大きくするかわからないから、勘当したと伝えてくれ」と答え・・・。3代目三遊亭金馬は道楽息子がジャズマニアという設定に変え「ジャズ息子」と題して演じていた。あらすじや落ちは「六尺棒」と変わらない。 二代目 三遊亭 小遊三 東京六大学野球の大ファンで明治大学へ進学。経営学部在学中は学園紛争の時代で授業もなく、気軽に足を運んだ新宿末廣亭で小学生のころにラジオで聴いた落語と再会。在学中に六代目三遊亭圓生の弟子入りを志願し、圓生の自宅に通い落語を習っていたが、ある日圓生から「前座はぬう生と旭生がいるから3人も面倒見られない」と、明大の先輩でもある初代圓丈を通じて断られる。不憫に思った圓丈は彼に「落語協会はうちの師匠が会長だから、落語芸術協会(当時は日本芸術協会)に行って、古典落語の得意な若手真打に弟子入りするのがいいんじゃないか?」とアドバイスを受けて、三代目三遊亭遊三に弟子入りする(前座名:三遊亭遊吉)本人は、学生時代に原宿を歩いていた際に遊三にスカウトされたと色男めいて笑いを取ることが多々ある。 「七度狐」 しちどぎつね、上方では「ひちどぎつね」江戸では「ななたびきつね」他に「七度狐庵寺潰し」(しちどぎつねあんでらつぶし)「庵寺つぶし」(あんでらつぶし)とも呼ばれる。道中噺「東の旅」(本題「伊勢参宮神乃賑」)の一編である。「東の旅」の一編と合わせて演じられることが多い。喜六と清八の二人が伊勢参りの途中で煮売屋に立ち寄りイカの木の芽和えを注文すると売約済で売ってくれない。怒った二人は木の芽和えを笠に隠して持ち出し歩きながら食べて容器のすり鉢を道ばたに放り投げると、そこにいた七度狐に命中して怒った狐が・・・上方語の「あんだら尽くす」(バカな真似をやめる)との地口である。一方、この言葉が通じない江戸落語版では、二人が百姓とともに狐を狩りだして尾をつかまえたと思ったら抜けてしまい、実は畑の大根だったという落ちが用いられる。やまだりよこによると、この落ちは2代目桂小南によるものという。また、3代目桂米朝はキャリア末期の2004年正月に、狐を追い詰めたと思ったところ水車の上を踏んでいた、という新しい落ちを使用している。 三代目 桂 米朝 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興に大きく貢献した。その功績から、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。位階は従三位。戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月にも出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。 「八五郎坊主」 上方落語の演目。にわかに僧侶になった男が、文字の読み方を知らないために起こる騒動を描く。宇井無愁は原話として以下の3つを挙げる。東大落語会 編「落語辞典 増補」は、本演目を「平林」や「波平行安」と同趣向の話とする。八五郎がにわか坊主となって剃髪してすぐに「法春」という法号をつけてもらう。しかし読み方を忘れてしまい、人に聞くことにした。すると最初の人は「 春日」の「かす」から「ほうかす」と読み、別の人に聞くと「かす」と読むなら「法」は「のり」と読まないとおかしいと言われて八五郎は「のりかす? それなら摺るなりつけるなりや」と話す。宇井無愁は「のりかす」は染織や印刷に使用する糊のこととする。「サゲの意味も上方の言葉を理解していないとわかりにくい。東京では非常に損な噺である」と保田武宏は評している 二代目 桂 枝雀 入門時から稽古には熱心で、深夜の歩行中にネタ繰りをして警察に通報されたり、ネタ繰りに没頭するあまり掃除機を部屋の随所にぶつけて什器を壊したりした。米朝の妻は、「周りを気にせずのめり込む人は、後にも先にもあの子のほかにはいなかった」と評している。この「私生活の間も落語の稽古をする」という習慣は、枝雀として名をなした後年も変わらなかった。1973年(昭和48年)10月に道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名。この襲名は、6代目笑福亭松鶴の「小米には枝雀という名前がええで!」という意向で決まった。これを機にそれまでの落語を大きく変える。初代桂春団治にもたとえられる所作や声の激しい芸風となり、多くの観客を爆笑させ、大衆的な人気を得た。1997年高座で「鬱なんです」と告白し、客席の笑い声に「笑いごとじゃないんですよ」と続けた。この会の後、出演を控えて闘病生活に入る。復帰するものの満足のいく口演が出来ず1999年自宅で自殺を図り病院に搬送され同年4月19日に心不全のため死去。満59歳没。遺書やそれらしい発言は全くなく、真相は不明。 トークなしで純粋に落語だけを楽しみたい方はこちらでどうぞ 落語の蔵:   / @repli455   トークをもっと楽しみたいと思ったらこちらもどうぞ 荒獅子男乃助:トークチャンネル    • 荒獅子男乃助:トークチャンネル   #志ん朝 #小遊三 #米朝 #枝雀 #落語 #五人廻し #六尺棒 #七度狐 #八五郎坊主