石田三成の子どもたちのその後。関ヶ原で斬られた男の6人の子と『将軍の子を産んだひ孫』【日本史】
日本史の後日談
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石田三成の子どもたちのその後。関ヶ原で斬られた男の6人の子と『将軍の子を産んだひ孫』【日本史】
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慶長5年(1600)10月1日、京都・六条河原。関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が斬られました。数えで41歳でした。
教科書では、三成の話はここで終わり、主役は勝った徳川家康に移ります。けれど、三成には3人の息子と3人の娘がいました。
「謀反人の子」となった子どもたちは、その後も生き続けました。長男は関ヶ原から86年後まで生きたとされ、次男は名前を変えて北の津軽へ。
娘のひとりは北の大名の妻となり、その子は弘前藩主に。そして別の娘のひ孫は、3代将軍・家光の子を産みました。
今回は、石田三成の子どもたちの「その後」を、関ヶ原の日から順にたどっていきます。
📌 この動画でわかること
・佐和山城の落城と、三成が六条河原で斬られるまで
・長男・重家:寺に入って命を助けられ、関ヶ原から86年
・次男・重成:「杉山源吾」と名を変え、津軽家の家臣に/青森に伝わった三成の肖像
・三男・佐吉と長女:高野山へ、そして北へ
・三女・辰姫:ねねの養女から津軽家の妻へ/家康の養女に正室の座をゆずって「大舘御前」に
・例外・三成の孫が、弘前藩の3代藩主・津軽信義になった
・次女の系統:ひ孫のお振が家光の初めての側室に/千代姫と国宝「初音の調度」
・佐和山城と彦根城、明治40年の墓の発掘と、昭和55年の復顔
青森・弘前や、彦根、京都の大徳寺を訪ねたことはありますか? コメントで教えてください。
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⏱ 目次
0:00 オープニング:石田三成の6人の子どものその後
1:27 第1章 関ヶ原と佐和山城|1600年9月、一族の城が落ちた日
4:07 第2章 長男・重家|関ヶ原から86年
6:38 第3章 次男・重成|名前を変えて、北の国へ
8:06 第4章 三男と長女|高野山へ、そして北へ
9:12 第5章 三女・辰姫|ねねの養女から、北の大名の妻へ
12:07 第6章 例外・三成の孫|北の国の藩主になった
14:30 第7章 次女・小石殿|ひ孫は、将軍の子を産んだ
17:47 第8章 三成の城と墓|壊された城と、307年後に開かれた墓
19:35 まとめ 三成の子どもたちの、その後|1600年 → 1686年
■ご注意
※年齢は数え年です。明治5年までの日付は当時の暦(旧暦)で、( )の西暦は年のみ示しています。
※長男・重家の生年と享年(99歳説・101歳説など)、関ヶ原のときにどこにいたか(大坂城・佐和山城)には諸説があります。
※三成の子は3男3女で、すべて正室の子とされますが、長女・次女の名や経歴には不明な点が多く、伝承を含みます。
※三成の血が皇室につながるという話は、系図上の説です。
※「三献茶」の話や、佐和山城の石垣・建物が彦根城に使われたという話は、言い伝えです。
※喜多川歌麿「秀吉と三成(佐吉)」「太閤五妻洛東遊観之図」は江戸時代の想像図です。京都・江戸・伏見の版画、夜の駕籠、誰が袖図屏風、明治の弘前・京都の写真などは、場面の雰囲気を伝えるための画像です。地図の位置はおおよそです。
■主な参考資料
Wikipedia「石田三成」「石田重家」「大舘御前」「津軽信義」「自証院」
■画像の出典(すべてWikimedia Commons・パブリックドメイン/CC0)
「石田三成像」(青森県・杉山家所蔵)/喜多川歌麿「秀吉と三成(佐吉)」/狩野光信「豊臣秀吉像」(高台寺)/「高台院(ねね)像」(高台寺)/喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」
「津軽信枚像」/「津軽信義像」/「徳川家光像」/「徳川秀忠像」/「春日局像」/「徳川光友像」/狩野探幽「徳川家康像」
「関ヶ原合戦屏風」(岐阜市歴史博物館)/「大坂夏の陣図屏風」(部分・大阪城天守閣)/「豊国祭礼図屏風」(ホノルル美術館)/「誰が袖図屏風」
吉田博「弘前城」(1935年)/明治の弘前/高野山・奥の院(明治期の写真・1912年の絵はがき)/伏見桃山城/明治の京都・二条城
歌川広重「木曽海道六拾九次 関か原」「同 伏見」/「東海道五十三次 京師 三条大橋」「同 大津」(メトロポリタン美術館・CC0)/「名所江戸百景」「名所江戸百景 市ケ谷八幡」「江戸勝景 虎之門外之図」
川瀬巴水「京都鴨川の夕暮」/小原古邨「夜の駕籠」
地図:dataofjapan/land
■ナレーション:VOICEVOX:青山龍星
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名場面のあとにも、人生は続いた。
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