三軒茶屋ナザレン教会礼拝説教「支え合う愛」2026年9月13日
三軒茶屋ナザレン教会
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2026年9月13日 礼拝式説教
エフェソの信徒への手紙4章25~32節
「主の恵みを分かち合う私たち」
日本ナザレン教団三軒茶屋教会
牧師 石川博詞
<説教から> この聖書箇所をはじめて読んだ人は「これはずいぶんと古風な内容だな」と、そう感じることだと思います。私も33節を読んだとき、歌謡曲を代表する歌手、三波春夫が歌った『名月綾太郎ぶし』(浪曲師 浪花亭綾太郎)で知られる『壺坂霊験記』(文楽人形浄瑠璃、歌舞伎、講談、浪曲浪花節)の名調子「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」が思い浮かびました。そのように、この箇所は昔々の夫唱婦随といった、家父長制度を美化する教えだから、現代には合わなくなってしまっている、と決めつけるのは簡単です。
しかし、ただそれだけのこととして、この聖句を受け止めたままで良いのでしょうか。そうした単に家父長制度を重んじることによって、社会秩序を維持させていこうという目的のためだけに、エフェソの信徒への手紙は書かれたのでしょうか。そして、二千年もの間、読み継がれて来たのでしょうか。もちろん、それだけでないことは言うまでもありません。この手紙がクリスチャンに伝えようとしていることとは、教会に集う者同士は一体どういう目的で一つの教会に集っているのか、そして、互いにどうあるべきなのかという、重大な意義であるのです。そもそも、教会に集う一人一人は、その生い立ちも、立場もまったく違います。ですから、何故自分たちが一つの教会に集っているのか、その意義があやふやなままですと、それぞれが勝手に自己主張をし始め、対立ばかりという状況に陥ってしまう恐れがあります。
では、クリスチャンが一つの教会に集められているその理由、意義、目的とは何なのでしょうか。それは、キリストの愛(アガペー)によって救われた者同士が互いに支え合うためなのです。そして、その喜び分かち合い、賛美し合い、そうした教会の姿を世に示し、証し続けるためなのです。
言うまでもなく、聖書の時代と、その社会背景は、今の私たちとはまったく違います。当然受け入れがたいと思えるような表現もあります。しかし、決して古代の価値観を押し付けることが聖書の、また教会の目的ではありません。現代のクリスチャンが、ここから神の御旨を受け止めるべき教えとは、キリストが示してくださった十字架に至るまでの愛アガペーを中心とすることなのです。一見、理想的な家父長制度の教えではありますが、ここから、キリストの愛、アガペーが、私にも満たされるよう、ひたすら願い求めるべきとの教えなのです。この教えを思い、教会に集う者同士が、互いにキリストの方向に目も心も向け続けて、支え合って行けるよう祈って行くのです。それこそが、キリストの教会にのみ存在する尊い宝だからです。
社会には、教会以外にも様々な互助会やサークルなど、立派な共同体が数多くあります。私たちクリスチャンも、そうした共同体から学ぶ点がたくさんあります。しかし、それらがキリストの無限の愛に根ざしていないならば、互いに支え合って行くためには、どうしても一定の枠、条件を当てはめなければ成り立たなくなってしまいます。そうしなければ、人の愛だけでは支え合うことが難しいからです。人はどうしても自分こそ絶対に正しくと信じ込んでしまうものだからです。今、世界は高度に情報技術が発達し、誰でも自由に知りたいことを広く深く知ることができます。でも、自分が知りたいことだけ、自分の思い通りの結果を示してくれる情報だけを鵜呑みにしていたのでは、せっかくの高度な技術も返って問題を深刻にさせてしまいます。最近、大国の指導者たちが、自分の都合に合う情報だけを絶対に正しいと人々に押し付けようとしている姿は目に余りますが、その根底にあることもまさに同じです。発達した技術を用いる人間に、自らの罪を悔い改め、隣人への愛を尊ぶ心がなければ、対立は深まるばかりです。
私たちクリスチャンはそうであってはなりません。キリストが私たちに愛を示してくださったように、私たちもアガペーの愛をもって互いに支え合って行けるよう願わなければなりません。それこそが、私たちの教会の目的、存在意義だからです。もちろん、私たちは不完全ですから、どうしても苦手ということがつきまといます。人が集まるほど、共同体の中に問題が発生しやすくなります。だからこそ、キリストのアガペーの愛とは何かを、聖書を通して常に思い起こし、その愛が与えられるよう祈るのです。そして、互いに理解し合えるよう願うのです。それを放棄してしまえば教会の存在意義はなくなります。私たちは、すべての事実を完全に正確に把握し尽くす能力を持っていません。それを忘れてしまったとき、私たち罪人は相手を支配することばかりに囚われてしまいます。どれほどそれが愚かしいかも忘れて、そうせずにはいられなくなってしまうのです。そんな時こそ、キリストの十字架の愛、アガペーを思い返すのです。「今、私は隣人のごく一部しか見えていない。理解できていない」「すべてを知り尽くせるだけの能力などない」ことを悔い改めるのです。そうすることによって、もしかしたら何か私の知らない背景(出来事、生い立ちなど)ゆえに、思いもよらない反応をしたのではないかと気づかされ、より深く支え合えるようになるのです。
古風に感じられる聖書の箇所ではありますが、ここから私たちが受け止めるべきは、主なる神様が、私をかけがえの一人として愛していてくださっているのだから、そのアガペーの愛を信じて、私も隣人と支え合う愛に生きる者とされるたいと祈るべきだということです。そうした支え合う愛を証詞する教会でありましょう。
主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。