日本中を歩いたのは、徳川光圀ではなく助さんのモデルでした
歴史の帳
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日本中を歩いたのは、徳川光圀ではなく助さんのモデルでした
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テレビの時代劇で四十年以上続いた「水戸黄門」。モデルは水戸藩の二代目藩主、徳川光圀です。ところが、光圀が訪ねたと確かめられるのは、日光・鎌倉・金沢八景・房総など関東のまわりだけで、諸国を旅した記録はありません。
では、遠い国まで本当に歩いたのはだれだったのか。旅する黄門さまの話は、どこから生まれたのか。兄を差し置いて跡継ぎになった光圀の一生から並べ直しました。
■ 兄を差し置いた弟
・一六二八年、水戸藩の初代藩主・徳川頼房の三男として、家来の屋敷で生まれました
・一六三三年、同じ母から生まれた六つ年上の兄・頼重ではなく、光圀が跡継ぎに選ばれます。理由ははっきりしていません
・若いころは素行の悪さが伝えられていますが、十八歳のとき『史記』の伯夷伝を読んで心を動かされ、学問に打ち込むようになりました
・一六六一年に藩主になると、兄の子を養子に迎え、自分の子の頼常を兄の高松藩の跡継ぎに出しました。水戸藩は兄の子の綱條が継いでいます
■ 大日本史と、歩いた家来
・一六五七年、まだ藩主になる前に、江戸の屋敷で歴史の本(のちの大日本史)の仕事を始めました。一六七二年に小石川へ移して彰考館と名づけます
・彰考館の佐々宗淳は、一六七八年から何度も史料を探す旅に出て、京都・奈良・吉野・高野山・熊野・河内、一六八五年には九州・中国・北陸まで足をのばしました
・安積澹泊は朱舜水に学び、一六九三年に彰考館の総裁になって、光圀の死後も本の仕事を続けました
・大日本史が全部できあがったのは一九〇六年です
■ 光圀自身の旅と、漫遊記
・一六九〇年に隠居して権中納言となり、中納言の中国風の呼び名「黄門」から水戸黄門と呼ばれます。翌年から西山の山荘に住み、一七〇一年に亡くなりました
・旅をする黄門さまの話の始まりは、江戸の中ごろの読み物『水戸黄門仁徳録』とされ、幕末に講談の『水戸黄門漫遊記』が生まれたと考えられています。お供を助さん・格さんの二人にしたのは明治の大阪の講談師で、二人のモデルは佐々宗淳と安積澹泊と見られています
■ この回で言わなかったこと
・大日本史の中身と、のちの水戸学のこと
・光圀の少年時代の逸話がどこまで本当か
■ 確かなことと、そうでないこと
断定したのは、光圀の旅で確かめられるのが関東のまわりだけであること、佐々宗淳の史料調査の旅の行き先と年、大日本史の始まりと完成の年です。
兄を差し置いたことが光圀に複雑な思いを抱かせた、伯夷伝が自分の話のように読めた、は「ともいわれる」「かもしれない」として紹介しました。家来の旅が主人の旅に重なって漫遊の話になった、というのは見方の一つです。
歴史の帳では、教科書やドラマで一行にまとめられている話を、記録に残っているところまで戻して並べ直しています。