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伊達政宗は、眼帯をしていません

歴史の帳

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伊達政宗は、眼帯をしていません

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伊達政宗といえば、片目の武将、独眼竜。右の目を刀の鍔の眼帯で覆った姿がよく知られています。ところが、政宗が生きていた時代の記録に、目を覆っていた様子は出てきません。刀の鍔の眼帯が広まったのは、一九四二年の映画からとされています。 では、あの眼帯の姿はどこから来たのか。政宗自身は、どんな姿で残りたかったのか。片目を失った子どものころから並べ直しました。 ■ 片目を失った子 ・一五六七年、出羽の米沢のあたりで生まれ、幼いころ疱瘡(天然痘)で右の目の光を失ったとされています ・一五八四年、十七歳で家を継ぎ、翌年、父の輝宗を二本松の畠山義継に連れ去られて失いました ・同じ年の人取橋の戦いでは、佐竹を中心とした三万ほどの軍に崩れかけ、鬼庭良直の踏みとどまりで退いています ■ 遅れて、疑われて ・一五八九年、摺上原で蘆名を破り、奥州の南の大部分を手にしました ・一五九〇年、秀吉の小田原攻めに遅れて参じ、会津を取り上げられています ・母に毒を盛られ弟を斬った、と江戸時代の伊達家の記録にありますが、母はその後も伊達家にとどまり政宗と手紙をやりとりしていて、実家の山形へ移ったのは四年後でした ・一揆を裏で動かしたと疑われ、七十二万石から五十八万石に減らされました ■ 眼帯と独眼竜はいつ生まれたか ・刀の鍔の眼帯は、一九四二年の映画「独眼竜政宗」あたりから広まったとされています ・一九五九年の映画では、秀吉の送った者の矢を右の目に受けた筋立てになっていました ・独眼竜という呼び名は、江戸時代の後半に頼山陽が漢詩で、唐の終わりの武将・李克用のあだ名を政宗に重ねたのがもとです ■ 両目の像 ・政宗は、像や絵にするときは両方の目を入れるように言い残した、と伝えられています。親からもらった目を片方なくしたのは不孝だ、と考えていたといわれます ・狩野安信の描いた絵、一六五二年の十七回忌に妻の陽徳院が作らせた瑞巌寺の像は、右の目を少し小さくして両方の目が入っています ■ そのあと ・一六〇一年に仙台へ城を移し、町づくりを始めました ・一六一三年、支倉常長とソテロを慶長遣欧使節として送り出し、一行はメキシコ、スペインを経てローマまで行っています ・一六三六年、江戸の屋敷で、数えで七十歳で亡くなりました ■ この回で言わなかったこと ・政宗がふだん右の目をどう扱っていたか(記録に出てこないため) ・母と弟の件の真相 ■ 確かなことと、そうでないこと 断定したのは、当時の記録に目を覆った様子が出てこないこと、鍔の眼帯が一九四二年の映画から広まったとされること、独眼竜の呼び名が頼山陽の漢詩からであること、死後の像と絵に両目が入っていることです。 両目で描くよう言い残した話は「伝えられている」形で紹介しました。政宗が親の子として残りたかった、という読みは見立てです。 歴史の帳では、教科書やドラマで一行にまとめられている話を、記録に残っているところまで戻して並べ直しています。