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【伊達政宗 毒殺事件の真相】犯人は母じゃない!? 毒を盛って逃げたはずの母が4年半も城にいた…「母が盛った」と書いた人物とは

歴史の後日談

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【伊達政宗 毒殺事件の真相】犯人は母じゃない!? 毒を盛って逃げたはずの母が4年半も城にいた…「母が盛った」と書いた人物とは

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伊達政宗は1590年、母に毒を盛られ、弟を斬った。母はその夜、実家の山形へ逃げた――仙台藩の記録はそう書きます。ところが政宗の先生・虎哉和尚の手紙では、母が城を出たのは約4年半後。その間、母は朝鮮の政宗に3両を送り、政宗は「一度お目にかかりたい」と返事を書いていました。「母が毒を盛った」と最初に書いたのは誰か。28年後の再会と、母子が交わした歌までを史料で追います。 ■ 目次 0:00 はじめに 0:27 母に毒を盛られた独眼竜 1:27 113年後の記録 3:27 先生の手紙 7:09 毒の話を広めた手紙 11:03 28年後の再会 15:49 まとめ ■ 出典(史料・資料) ・藩祖伊達政宗公顕彰会 編 (1938). 伊達政宗卿伝記史料. 国立国会図書館デジタルコレクション. 〔貞山公治家記録〕天正18年4月5日・7日の条、母宛の政宗書状(文禄2年7月24日・文禄3年11月25日)ほか. https://dl.ndl.go.jp/pid/1880040 ・佐藤憲一 (1999). 伊達政宗の母 義姫. 最上義光歴史館「歴史館だより」No.6. https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=12... ・佐藤憲一. 続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相. 最上義光歴史館「歴史館だより」No.30. https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=53... ・佐藤憲一. 伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(前編). 最上義光歴史館「歴史館だより」No.31. https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=54... ・佐藤憲一. 伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(後編). 最上義光歴史館「歴史館だより」No.32. https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=55... ・最上義光歴史館. 最上家をめぐる人々 #5【義姫/よしひめ】. https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=10... ・仙台市 若林区. 寺めぐり「連坊・木ノ下あたり」(保春院). https://www.city.sendai.jp/waka-katsu... ・仙台市博物館. 主な収蔵品 伊達政宗に関する資料(1). https://www.city.sendai.jp/museum/shu... ・仙台市博物館. 主な収蔵品 伊達政宗に関する資料(2).(毒殺未遂は「真相は不明」) https://www.city.sendai.jp/museum/shu... ・あきる野市. 郷土の古文書 その2 伊達政宗の白萩所望状. https://www.city.akiruno.tokyo.jp/cms... ・仙台市. 市政だより 2017年4月号 特集 伊達政宗(眼帯の肖像画は一つもない). https://www.city.sendai.jp/shiminkoho... ■ 通説と異説について ・毒を盛ったのが誰か(そもそも毒殺未遂があったのか)を決める同時代の史料はありません。動画で確かだと言っているのは、母が政宗の城を出た日付(文禄3年=1594年11月4日・虎哉和尚の書状)と、事件の後も母子の手紙が続いていることです ・「政宗と母が示し合わせた芝居」「弟・小次郎は大悲願寺の秀雄」は佐藤憲一氏の説(『市史せんだい』27号・2017)です。海音寺潮五郎は政宗の一人芝居説、松尾剛次氏(『最上氏三代』2021)は藩が作った話とする説を取ります ・茂庭(鬼庭)綱元宛の政宗の書状は『貞山公治家記録』の付録に収められ、原本は所在不明、江戸時代の写し(貞山君尺牘)で伝わります。偽書とみる見解もあります ・『貞山公治家記録』の毒の場面は、毒見をした御膳番が血を吐いて倒れ、政宗は腹痛と称して帰った、という書き方です ・「約4年半」は和暦で天正18年4月7日から文禄3年11月4日まで(4年7か月)。月日はすべて当時の暦(旧暦)のままです ・母の名「義姫」は『貞山公治家記録』の表記で、同時代の史料では確かめられません(当時は「お東」)。「保春院」は亡くなった後のおくり名です ・手紙の言葉は現代語に直しています(例: 文禄2年7月24日「あはれ此ふんにていのちつゝき、一たひおかみ申度御事まてニ候」/文禄3年11月25日「そこもとさそや雪もつもり、風すさまじく候はん、御きあいもいかゝとそれのみあんし入まゐらせ候」/元和8年9月6日「せひせひかちはたしにても、政宗のくにのはしへころひ入候はん」) ・虎哉和尚の手紙の発見年は、佐藤氏の文章に1994年と「1999年の5年前」の2通りがあり、1994年に従いました。手紙の言葉は佐藤氏の現代語訳によります(原文は確かめられていません) ・当時の日記(『伊達政宗卿伝記史料』所収の〔日記〕)の天正18年4月5日・7日には、母のところへ出かけ腹痛で帰りすぐ治ったこと、小原縫殿助を討たせたことだけが書かれています。『政宗君治家記録引証記』は、記録のこの条を日記の記述と後年の聞き取りをもとに「考立」てたと記しています ・小袖を添えた母宛ての手紙(11月25日付)の年は、佐藤氏は文禄3年(1594)とし、1938年の『伊達政宗卿伝記史料』は文禄4年の条に置いています。動画は佐藤氏に従いました ・保春院(寺)の創建は、仙台市の説明では寛永12年(1635)の十三回忌。『貞山公治家記録』の寛永6年(1629)七回忌の条には「去年少林山保春院御創開」とあり、寛永5年に開かれたとも読めます ・母の命日は『貞山公治家記録』と佐藤氏に従い元和9年7月16日としました(17日・12日とする資料もあります)。弟・小次郎の年齢は13歳・17歳など諸説あり、はっきりしません ・仙台市博物館は、この事件について「真相は不明です」と説明しています ※ 動画の絵は、説明のための再現イメージです。人物の顔や建物の形は実物と違います。 ※ 年月日は和暦の記録を西暦に直したものを含みます。史料によって日付が前後することがあります。 #歴史の後日談 #日本史 #歴史解説