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篤姫は、実家の薩摩を「逆賊」と呼んだ。江戸城を出たあと、何が彼女を変えたのか|大奥のその後【幕末】

ひもとく日本史

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篤姫は、実家の薩摩を「逆賊」と呼んだ。江戸城を出たあと、何が彼女を変えたのか|大奥のその後【幕末】

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江戸城が明け渡される1か月前、篤姫(天璋院)は、実家の薩摩の西郷隆盛に、徳川の家を残してほしいと願う手紙を書きました。ところが城を出て数か月後、彼女はその薩摩を「逆賊」と呼ぶ手紙を書きます。 慶応4年(1868年)4月、江戸城の大奥を出た将軍の妻と母は4人——天璋院、和宮、本寿院、実成院。そして「大奥最後の御年寄」と呼ばれる瀧山と、城を去った女中たち。城を失った女性たちが明治の36年をどう生きたのかを、記録をもとにたどります。 ▼目次 0:00 はじめに 1:24 第一章 最後の大奥 5:46 第二章 実家を「逆賊」と呼んだ手紙 9:23 第三章 城へ戻った和宮 13:28 第四章 最後の日にいなかった御年寄 17:03 第五章 赤坂の小さな大奥 20:05 第六章 箱根の九月 24:09 第七章 イギリスへの手紙 27:23 第八章 最後に残った母 31:14 結 城を出た女たちの36年 ▼記録・伝承について ・天璋院が懐剣を手放さなかったという話は、勝海舟が後年に語ったものです。 ・瀧山が大奥を出た時期には、開城まで勤めたとする説もあります。 ・天璋院の没日と享年、歌橋の没日、実成院が城を出たあとの移り先などは、資料によって違いがあります。 ・天璋院の手もとに3円しか残っていなかった話、島津家からの援助を断った話、葬列の沿道に1万人が集まった話は、当時の記録による裏付けがはっきりしていません。 ・和宮の歌「空蝉の 唐織ころも」は、家茂の死後に詠んだと伝わるものです。 ・手紙や記録の画面は、内容を要約し、読みやすい字で表示しています。 ※明治5年までの日付は旧暦、年齢は数え年です。 ※肖像画・浮世絵・写真以外のイラストはAIで生成したイメージで、顔や衣装、場面は想像によるものです。地図・江戸城の図・図解は概略図です。 ▼肖像画・浮世絵・写真(Wikimedia Commons) ・パブリックドメイン:天璋院(篤姫)の写真、和宮(静寛院宮)の肖像2点、徳川家達(明治初期の写真)、川村清雄「徳川家達像」「徳川家定像」、結城素明「江戸開城談判」、元治度 西ノ丸仮御殿の図、西の丸の門と二重橋(フェリーチェ・ベアト撮影)、明治初期の江戸城本丸跡、皇居東御苑・本丸跡(Abasaa)、楊洲周延「千代田之大奥」(花見・歌合・操り人形)、徳川家茂像・徳川家定像(狩野派)、徳川慶喜、勝海舟、西郷隆盛(キヨッソーネ 画)、島津斉彬、輪王寺宮公現法親王、明治天皇、松平確堂、クララ・ホイットニー(アメリカ議会図書館)、夏目漱石(小川一真 撮影)、歌川広重「箱根七湯図会 塔の沢」 ・楊洲周延「千代田の大奥」「千代田の大奥 茶の湯辺り花」:The Metropolitan Museum of Art(CC0) ・徳川家達(1930年):Georges Chevalier(CC BY 4.0) ・増上寺:江戸村のとくぞう(CC BY-SA 4.0) ▼BGM OpenTracks(旧DOVA-SYNDROME) 「神様の道」 キュス /「沈黙の聖堂」「雨に消える声」「faded away」「Storyteller」 のる /「秋、深まりて」「白に染まって」 蒲鉾さちこ /「雪化粧」「花一華」 MAKOOTO /「懐かしの里」 今川彰人オーケストラ /「雪月花」 まんぼう二等兵 /「ノスタルジア」 こばっと /「燦々雨」 ゆうり ▼ナレーション VOICEVOX:青山龍星 天璋院が、実家の薩摩を「逆賊」と書いたあの手紙。徳川の人間として生きる覚悟だったのか、それとも、追いつめられた末の言葉だったのか。あなたなら、あの手紙をどう読みますか。ぜひコメントで聞かせてください。 チャンネル登録をしていただけると、とても励みになります。 #大奥 #篤姫 #日本史