小牧・長久手の戦い|家康は勝った。なのに、なぜ息子を人質に差し出したのか【大河「豊臣兄弟!」第35回 秀長誕生】
サムライ日本史
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小牧・長久手の戦い|家康は勝った。なのに、なぜ息子を人質に差し出したのか【大河「豊臣兄弟!」第35回 秀長誕生】
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天正十二年(1584年)十二月十二日、十一歳の少年が岡崎から大坂へ送られました。徳川家康の次男・於義伊、のちの結城秀康です。徳川の側は「羽柴秀吉の養子に出した」と言い、秀吉の側は人質として受け取りました。
その八か月前、家康は長久手で秀吉の軍を打ち破っています。勝ったのは家康のほうでした。では、なぜ勝った側が子を差し出したのか。
小牧・長久手の戦いは「家康が秀吉に勝った、ただ一度の戦い」と語られます。それは間違いではありません。ですが、それだけでは、そのあと家康が秀吉に頭を下げた理由が説明できません。この動画では、三月から十一月まで八か月続いた戦役を日付と数字で追いかけ、戦術の勝敗と戦略の勝敗がなぜここまで分かれたのかを見ていきます。今年二〇二六年五月に兵庫県たつの市で新たに見つかった、秀吉から脇坂安治への朱印状にも触れます。
▼目次
0:00 勝った側が、なぜ子を差し出したのか
0:54 第一章 八か月の戦役で、野戦は一日だけ
2:07 第二章 中入りは、なぜ漏れたのか
3:29 第三章 秀吉が狙ったのは、信雄だった
4:38 第四章 勝者が、人質を差し出す日
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▼この動画で扱った主な事実
・戦役の期間=天正十二年三月〜十一月(およそ八か月)。大きな野戦は四月九日の長久手のみ、戦闘は二時間あまり
・長久手の損害=羽柴方の死者二千五百余、織田徳川方の死者五百九十余。池田恒興・元助父子と森長可が討ち死に
・中入りの編成=四月六日夜半に出発。池田恒興五千/森長可三千/堀秀政三千/三好信吉(のちの豊臣秀次)九千の計二万
・小牧山と楽田の距離=直線でおよそ五キロ。小牧山城はもともと信長が一五六三年に築き、一五六七年の岐阜移転後に捨てた城
・十一月十二日、織田信雄が家康に相談せず単独で秀吉と和睦(伊賀と伊勢半国の割譲、人質の提出)
・十二月十二日、家康は次男・於義伊(のちの結城秀康)を大坂へ送る。徳川側は「養子」、秀吉側は「人質」と認識していた。天正十四年十月二十七日、大坂城で豊臣への臣従を表明
・二〇二六年五月、兵庫県たつの市の旧家で秀吉から脇坂安治に宛てた朱印状二通が発見。十月二十四日から龍野歴史文化資料館で公開予定
▼クレジット
音声:VOICEVOX(青山龍星)
画像:パブリックドメイン中心・一部CC BY-SA/Wikimedia Commons
・徳川家康像=狩野探幽 筆(大坂城天守閣 蔵)
・豊臣秀吉像=狩野光信 筆
・織田信雄像=総見寺 蔵
・池田恒興像=狩野尚信 筆
・森長可像=常照寺 蔵
・堀秀政像=長慶寺 蔵
・豊臣秀次像=瑞雲寺 蔵
・結城秀康像=東京大学史料編纂所 蔵
・小牧長久手合戦図屏風=豊田市 蔵(十八世紀・作者不詳)
・大坂夏の陣図屏風=大阪城天守閣 蔵(黒田長政 発注)より大坂城天守
・小牧山 空撮=上条ジョー(パブリックドメイン)
・地図=Japan Honshu central topographic map(Soren Bradley)CC BY 4.0
※図解・章見出し・オープニングは本チャンネル制作のオリジナルです。
VOICEVOX:青山龍星
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