【忠臣蔵の真実】島流しの息子を帰したのは、将軍の死ではなく内匠頭の未亡人の願い
生き残りの日本史
0:00 / 0:00
【忠臣蔵の真実】島流しの息子を帰したのは、将軍の死ではなく内匠頭の未亡人の願い
615 просмотров · 16 ч назад
生き残りの日本史
286 подписчиков
615 просмотров · 16 ч назад
1703年(元禄16年)2月4日、吉良を討った赤穂の46人が切腹した同じ日に、幕府は息子たちも罰していました。父は切腹、息子は島流し。15歳以上の4人が遠島となり、いちばん若い中村忠三郎は15歳でした。
島へ送られた息子たちを帰したのは誰の願いだったのか。討たれた側の吉良家は絶え、事件を起こした浅野家は旗本として戻ったのはなぜか。幕府の申し渡しの言葉を、預け先の大名家の記録・『徳川実紀』・後世の著述に分けて読み、息子たち一人ひとりの行き先と、二つの家のその後をたどります。
【目次】
0:00 父は切腹、息子は島流し
1:22 46人は何の罪で切腹したのか
4:04 「15歳」の線、切腹した者の子は遠島
5:33 大島の4人は帰れたのか
6:57 15歳に満たない子たちのその後
8:31 大石の妻りくと、2歳の三男・大三郎
10:55 浅野長広、戻った家と戻らなかった城
13:14 討たれた吉良家への申し渡し
14:38 吉良義周は、その夜何をしたと咎められたのか
15:32 信州へ送られた吉良の跡継ぎ
16:33 47人目の寺坂吉右衛門
17:27 幕府は、誰を罰し誰を許したのか
18:57 なぜ討たれた家は絶え、浅野の家は戻ったのか
【主な出典・参考資料】
[H01] 中央義士会 編・渡辺世祐 校『赤穂義士史料 上巻』(雄山閣、1931年)
この動画で参照した内容:『元禄年録』(幕府殿中の記録の抄録)の討ち入りの記事と、吉良義周への申し渡し「左兵衛仕形不届」。『寺坂信行筆記』(寺坂吉右衛門の覚え書きを孫が写したもの)の大島の赦免、吉千代の出家、寺坂が広島へ向かったこと。覚書類の上杉綱憲の遠慮。
[H02] 同『赤穂義士史料 中巻』(同、1931年)
この動画で参照した内容:預け先の大名家の記録(『細川家御預始末記』『久松家赤穂御預人始末記』)に残る46人への申し渡し(徒党・飛び道具・公儀を恐れず)と、遺児の処分(十五歳以上は遠島、それより下は十五歳になってから)。大島へ送られた4人の名と年、主税の切腹、大三郎の遠島御免。『諏訪家御用部屋日記』の義周の最期。『大石家系譜』のりくと大三郎の記事。
[H03] 同『赤穂義士史料 下巻』(同、1931年)
この動画で参照した内容:大石りくの書状(広島で「新ち千五百石下しおかれ候」)、宝永6年の赦免に付く編者注。
[H04] 室鳩巣『補正赤穂義人録』(扶桑文社、1910年)
この動画で参照した内容:義周の処分を評する宣命の「見父見殺」、「吉良氏至是家絶」、寺坂のその後を述べる補正の注(「事既往不問」)。後世の漢文の評伝で、補正は後の編者の注記です。
[H05・H06] 国史大系『徳川実紀』第12巻(常憲院殿御実紀)・第13巻(文昭院殿御実紀)(経済雑誌社、1903・1904年)
この動画で参照した内容:2月4日の切腹の名簿(「以上四十六人」)、助命か処罰かで評議が割れたとする編者の後書き、義周の処分「その夜のはからひよからず」、永井直敬・森長直の赤穂への転封、宝永6年の大赦「浅野大学長広を始め千百四十九人」、宝永7年9月の長広「五百石」。幕府の編纂史料です。
[H07・H08・H09] 堀田正敦 編『寛政重脩諸家譜』第1輯(國民圖書、1922年)・第2輯・第4輯(同、1923年)
この動画で参照した内容:吉良氏の項の義央の最期(年六十二)、上杉氏の項の綱憲の致仕と没年、浅野家の項の長広(兄から3000石を分けられたこと、閉門、広島への引き取り、安房国での500石、泉岳寺の墓所、子孫の続柄)。幕府が編んだ系譜です。
【説明上の補足】
・年月日は当時の暦(和暦)で、西暦を添えました。年齢は数え年です。『赤穂義士史料』は昭和の活字史料集で、預け先の記録や殿中の記録の抄録を収めており、原本そのものではありません。
・「喧嘩両成敗」の語は、申し渡しにも『徳川実紀』の原文にもなく、本編が使った言葉です。罰の線が「討ち入りの夜のふるまい」に引かれていたという言い方は、申し渡しの言葉を並べた本編の読みです。
・46人への申し渡しは、預け先の松平家(久松家)の記録に残る文です。『徳川実紀』は同じ内容を要約しており、申し渡しそのものではありません。切腹に決まるまでに評議が割れたという話は、『徳川実紀』の編者の後書きにある伝聞で、評定の記録ではありません。
・刃傷の理由を『徳川実紀』は「時所をもわきまへず。ひが事動せり」と書きます。長矩の享年を35歳とする記述は「とぞ」の伝聞のため言っていません。
・大石主税が松平家預けの10人のうち一番に切腹したのは、松平家の中での順で、46人全体での順ではありません。介錯は波賀清太夫と記録にあります。
・大島の4人の年齢は細川家の書付に従いました。『寺坂信行筆記』は同じ4人を別の年齢で書き、名も書付は「定八」、久松家の記録と寺坂筆記は「貞八」です。
・大島の4人の赦免(宝永3年)が内匠頭の未亡人の願いによるという話は、寺坂吉右衛門の孫が写した『寺坂信行筆記』1点に拠ります。宝永6年の大赦で許されたのは、島へ送られる前の預けの子で、本編はこの2つを分けて話しました。
・吉千代の年は細川家の書付で13歳、久松家の記録で15歳と割れ、没年も系譜(宝永元年)と久松家の記録(宝永6年)で割れます。出家は母の願いとして書かれ、出家すれば遠島を免れるという一般の決まりは見つかっていません。
・藤之丞について池田家の記録は、2歳で母とともに岡山の池田家の家臣・津川門兵衛(祖父)に預けられ、宝永6年に8歳で赦されたと書きます。片岡の子2人のその後は、記録で確かめられていません。
・大三郎について『大石家系譜』は、生まれてすぐ丹後の医師・林文左衛門に養われ、のち石束毎好が引き取ったと書き、初名は良武です。宝永6年の赦免に付く大三郎の年の傍注(12歳)は、ほかの記録と食い違います。
・りくについて、離縁されたとは書かれておらず、本編は「実家の豊岡へ帰した」までにとどめました。広島の浅野本家が長広を引き取り、のち大三郎を1500石で召し出したことは話しましたが、本家が罰を受けなかったかどうかは言っていません。
・長広の500石は安房国の領地です。上総の領地は、子孫の長貞の代の天明6年の替地です。長広の致仕と長純の家督の日付は記録で3か月食い違うため言っていません。子孫は『寛政重脩諸家譜』の編纂のころまで続きます。
・赤穂の城主は、永井直敬が元禄15年(1702)9月1日に3万3千石で入り、宝永3年(1706)正月28日に森長直と入れ替わりました。森の石高は確かめられていないため言っていません。
・吉良義央は、『寛政重脩諸家譜』に年六十二とあります。『元禄年録』は討ち入りで「寄手ハ死者無之」と書きます。吉良側の死者数は文書ごとに違い、人数なし、侍15人と中間3人、15人、16人など割れます。
・義周は宝永3年正月20日に高島で亡くなり、遺体は塩詰めにされ、2月4日に検使が見分したのち法華寺で土葬されました(『諏訪家御用部屋日記』)。討ち入り後の処分の日と同じ月日ですが、別の年です。『赤穂義人録』は、諏訪家が家臣を遣わして義周を引き取り、数日置いて信州へ送ったと書きます。
・義周の実の父、上杉綱憲は幕府の内意で遠慮し、元禄16年8月21日に致仕、宝永元年(1704)6月2日に42歳で亡くなりました。米沢藩に減封や取り潰しの記事は見つかっていませんが、なかったことの証明ではありません。
・寺坂について『赤穂義人録』補正の注は、広島で長広に留められ、翌年4月に戻って自ら罪を述べたと書き、「不問」とします。幕府側の記録での裏付けは見つかっていません。原惣右衛門の奥書は寺坂を「逐電」と書き、討ち入りの前後に姿を消したと読めます。寺坂の没年は確かめられず、言っていません。
・肖像のない人物は影で表しました。肖像・錦絵は後世の作で、当時の姿そのものではありません。正保城絵図(1644年)は正徳3年(1713)の広島の場面に出していますが、その年の絵図ではありません。地図・年表・一覧表は説明のための図です。
【関連する回】
小谷城で滅んだ浅井家の血は、なぜ56年後に天皇に流れたのか
関ヶ原のあとの石田家配置図|三成の子どもたちは、京都・津軽・上野のどこへ散ったのか
【豊臣家の末路】大坂落城のあと、秀頼の子どもたちはどうなったのか?
【素材・音声等のクレジット】
史料画像
四十七士肖像(歌川芳虎)/Wikimedia Commons
忠臣蔵十一段目/米国議会図書館蔵(Wikimedia Commons掲載)
仮名手本忠臣蔵 十一段目(歌川広重)/ロサンゼルス郡立美術館蔵(Wikimedia Commons掲載)
義士切腹之図/早稲田大学図書館蔵(Wikimedia Commons掲載)
誠忠義士伝 大石主税(歌川国芳)/大英博物館蔵(Wikimedia Commons掲載)
寺坂吉右衛門(尾形月耕)/Wikimedia Commons
浅野長矩像/花岳寺所蔵(Wikimedia Commons掲載)
大石良雄像/赤穂大石神社所蔵(Wikimedia Commons掲載)
泉岳寺の浅野長矩の墓(Fg2)/Wikimedia Commons
徳川綱吉像/法隆寺蔵(Wikimedia Commons掲載)
徳川綱吉像(土佐光起)/徳川美術館蔵(Wikimedia Commons掲載)
正保城絵図 安芸国広島城所絵図/国立公文書館蔵(Wikimedia Commons掲載)
大日本沿海輿地全図 第102図 伊豆・大島・利島(伊能忠敬)/国立国会図書館蔵
日本古城絵図 信濃国高嶋城図/国立国会図書館蔵
日本古城絵図 奥州米沢城図/国立国会図書館蔵
上記はいずれもパブリックドメイン。画像は切り出し・拡大・額装等をしています。
ナレーション:Google Gemini 3.8 Flash TTS(ja-jp-storyteller-4)による合成音声
映像・BGM・効果音:チャンネルのオリジナル(史料画像のほかはプログラムで作図・合成)
#赤穂事件 #四十七士 #吉良義周