枝雀vs小三治 天を目指した二人【落語】くやみ 時そば 鷺とり 備前徳利
落語ch:荒獅子男乃助
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枝雀vs小三治 天を目指した二人【落語】くやみ 時そば 鷺とり 備前徳利
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0:48くやみ 29:09時そば 53:06鷺とり 1:23:58備前徳利 2:26:37エンドトーク
「くやみ」
冠婚葬祭のあいさつの中でも中でも人が亡くなったときのくやみのあいさつはもっとも難しいと言われています。葬式の受付、昔の言い方で帳場と言ったそうですが、この帳場にくやみを述べに来る人たちの、人情のウラを皮肉ったものです。弔問客の中には何を言ってるのか分からない者や、全然関係ない話をする者や、商売の宣伝をする者や、のろけ話をする者などがいる。緊張のためか何を言えばいいのか分からないのか滑稽な挨拶が続きますが考えようによっては辛辣な皮肉に聞こえてきます
「鷺とり」
古典落語の演目。元は上方落語の演目。東京では「雁釣り(かりつり)」、「雁とり」』(かりとり)」冒頭部以降の展開が異なる「商売根問(しょうばいねどい)」がある。「鷺取り」と「雁釣り」は、金銭目的で鳥を捕まえようとして失敗した男の起こす騒動を描く。1791年(寛政3年)に出版された笑話本「鳩灌雑話」の「鷺」「鷺の次」が直接の原話とみられるがストーリーや描写が似通う民話が日本各地に残っており、これは現在も絵本等で「鴨とり権兵衛」等の題で広く知られる。主な演者に上方の初代桂春団治や2代目桂枝雀、東京では6代目三遊亭圓窓や4代目柳家つばめがいる
二代目 桂 枝雀
入門時から稽古には熱心で、深夜の歩行中にネタ繰りをして警察に通報されたり、ネタ繰りに没頭するあまり掃除機を部屋の随所にぶつけて什器を壊したりした。米朝の妻は、「周りを気にせずのめり込む人は、後にも先にもあの子のほかにはいなかった」と評している。この「私生活の間も落語の稽古をする」という習慣は、枝雀として名をなした後年も変わらなかった。1973年(昭和48年)10月に道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名。この襲名は、6代目笑福亭松鶴の「小米には枝雀という名前がええで!」という意向で決まった。これを機にそれまでの落語を大きく変える。初代桂春団治にもたとえられる所作や声の激しい芸風となり、多くの観客を爆笑させ、大衆的な人気を得た。1997年高座で「鬱なんです」と告白し、客席の笑い声に「笑いごとじゃないんですよ」と続けた。この会の後、出演を控えて闘病生活に入る。復帰するものの満足のいく口演が出来ず1999年自宅で自殺を図り病院に搬送され同年4月19日に心不全のため死去。満59歳没。遺書やそれらしい発言は全くなく、真相は不明。
「時そば」
古典落語の演目。蕎麦の屋台でそばの勘定(代金)を巡るごまかしを目撃した男が、それに感心して自分も真似して同じことをしようというスリリングかつ滑稽な話で、数多い古典落語の中でも、一般的に広く知られた演目の一つである。「刻そば」「時蕎麦」という表記が用いられることもある。 内容は蕎麦の屋台で起こる滑稽話であり、数多くの古典落語の中でも、一般的に広く知られた演目の一つである。「刻そば」「時蕎麦」という表記が用いられることもある。 1726年の笑話本「軽口初笑」の「他人は喰より」が元となっている。明治時代に三代目柳家小さんが上方落語の演目「時うどん」を江戸噺として移植したとされている。 以降柳派の落語家が得意として戦後は六代目春風亭柳橋、五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さんがそれぞれ十八番としていた。五代目柳家小さんは特に蕎麦をすする芸の上手さは有名でプライベートで蕎麦屋に入った時に他の客から蕎麦の食べ方に注目されてしまい、仕方なしに落語の通りに蕎麦の先にちょとだけつゆを付けて食べていた。後年「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。
「まくら・ドリアン騒動 備前徳利」
シンガポールで開かれた落語会でのドリアンにまつわるエピソードを中心に小三治ワールドが展開されていく。約40分に及ぶまくら「ドリアン騒動」は、まるでエッセイのように肩から力を抜いて聴くことが出来るが「備前徳利」への布石がふんだんにちりばめられており全編を聴き終えた時にその完成度の高さに驚かされる。
「備前徳利」備前の池田公が諸国の大名を呼んで宴会を開いた。その時酒豪の大名が居て、自分と飲み比べがしたいので、誰か酒が飲める者を同伴して欲しいと頼まれた。しかし、その様な酒豪は備前藩には居なかったが、それでは失礼になると、下役ではあったがお台所役の片山清左衛門と言う者を見付けた。衣服を整え、大名と差しで飲み比べをやり僅差で清左衛門が勝った。その大名は機嫌良く帰っていった。これを喜んだ池田公は清左衛門に三百石を与えたが・・・。
十代目 柳家 小三治
「まくらの小三治」と呼ばれるほど、まくらに力を入れており小三治のまくらを聴きに寄席に足を運ぶ常連もいたという。中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定され東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われ四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽に並び本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し大看板となった落語家のひとりである。弟子や若手に対する指導が厳しいことで知られていた。池袋演芸場で行われていたある日の「二ツ目勉強会」では、芸を批評するために小三治が来場することが出演者に告げられると、リラックスしていた楽屋に一気に緊張感が走り、強面で知られる三代目橘家文蔵(当時:橘家文吾)は落ち着きを失って顔面蒼白になったり、三代目柳家甚語楼(当時:柳家さん光)は固まったように黙ってしまったという。中には「噺家を辞めて故郷へ帰れ!」と小三治に叱責された二ツ目もいたとされる。
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