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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 慶のその後 秀長の正室・慈雲院は夫に続いて養子の秀保を亡くし大和大納言家は取りつぶしとなったが家康から・History of JAPAN

歴史JAPAN Kunibo

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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 慶のその後 秀長の正室・慈雲院は夫に続いて養子の秀保を亡くし大和大納言家は取りつぶしとなったが家康から・History of JAPAN

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天正17年(1589年)9月に在京命令で聚楽第屋敷へ移った彼女は、翌年春に秀長が重篤化すると郡山へ戻り、家臣・横浜良慶を通じた寺社領返還を伴う平癒祈祷を指示して看病に尽くしたが、天正19年(1591年)1月22日に秀長は52歳で病没した。落飾して慈雲院と号し「大和大方様」「大納言殿後室」と呼ばれた彼女は、翌2月に秀保夫妻を伴い上洛して代替わりを披露するとともに、千利休事件に連座して磔刑に処されかけた大徳寺高僧・古渓宗陳らの助命を大政所と共に秀吉へ嘆願して救うなど、一門の重鎮として政治的影響力を発揮した。同年5月7日には高野山奥之院の秀長の墓塔の隣に、女性の墓としては異例の高さ約2メートル(193〜198cm)の自身の逆修五輪塔を建立し、深い夫婦の絆を刻んだ。しかし文禄4年(1595年)4月に秀保が17歳で急死して大和大納言家は断絶し、郡山城退去を余儀なくされた。それでも関ヶ原合戦後の慶長10年(1605年)頃には、徳川幕府から旧領ゆかりの大和国内4村(現在の奈良市・天理市内)に計2,000石の後家領を給されており、生前の秀長夫妻が築いた人望と格式が新政権下でも重んじられていたことがうかがえる。その後、養女たちの早世や元和元年(1615年)の大坂夏の陣による豊臣宗家滅亡を見届け、秀長没から29年後の元和6年(1620年)2月28日(または3月28日)に死去し、高野山奥之院の逆修塔のもとで夫・秀長の傍らに葬られたが・・ 作曲 秋山裕和 http://www.hmix.net/ #nhk大河ドラマ #豊臣兄弟 #慈雲院