【絵で解説】始皇帝「水銀を飲んで死んだ」は本当か?最期の旅を地図でたどったら、死んだ皇帝は倍近く遠回りしていた|世界史の本当か
歴史トーク
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【絵で解説】始皇帝「水銀を飲んで死んだ」は本当か?最期の旅を地図でたどったら、死んだ皇帝は倍近く遠回りしていた|世界史の本当か
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紀元前210年の夏、沙丘という町の宮殿。始皇帝が、旅の途中で、息を引き取りました。
「不老不死を求めた皇帝は、水銀を薬だと信じて飲み続け、その毒で命を落とした」で知られる始皇帝の最期。ところが、歴史書『史記』に、水銀を飲んだという話は出てきません。
では、始皇帝は、本当に水銀で死んだのか。死んだあと、皇帝の車は、どこへ向かったのか。
最期の旅を地図でたどり、死んだ皇帝を乗せた車が通った道を測って、都へまっすぐ帰る道と比べました。
不死の薬を探した方士たち、窓を閉めた車に運ばれ続けた食事、竹の札に残るもう1つの記録、2025年に秦のものと認められた黄河の源流の刻石、そして「水銀を飲んで死んだ」という話が生まれるまで、記録と伝承を区別しながらたどります。
■ チャプター
0:00 序章 沙丘の夏
0:56 第一章 不死の薬を探した皇帝
2:21 第二章 最後の旅
3:38 第三章 死を隠した車
4:43 第四章 地図でたどった帰り道
7:07 第五章 旅の終わりの墓
8:56 終章 水銀の話はどこから来たか
■ 出典(主なもの)
・司馬遷『史記』巻6 秦始皇本紀(中文ウィキソースの本文と『史記三家註』で照合。最後の旅・平原津で病み沙丘で亡くなったこと・死を隠した車・塩漬けの魚・九原から直道を通って咸陽へ戻ったこと・驪山の墓の水銀の川と海。本紀の「水銀」は墓の1か所だけ、「薬」は9回で、飲んだ話は0=本作で数えた)
・『史記』巻28 封禅書(不死の薬を得られず、帰る途中で沙丘で亡くなった/漢の武帝の宮廷の、丹砂を黄金に変える術)、巻87 李斯列伝・巻88 蒙恬列伝(死を知っていた者・扶蘇への偽の手紙・直道)。『史記』130巻の全文で「水銀」は1か所(本作で数えた)
・『趙正書』(北京大学蔵西漢竹書。中文ウィキソースの翻刻で読んだ。出版物『北京大学蔵西漢竹書〔参〕』2015年は未見)。「昼も夜も急いで甘泉へ向かえ。病のことは家臣たちに知らせるな」、跡継ぎの胡亥を始皇帝自身が「よし」と認める話
・『資治通鑑』巻241・243・248・249(唐の憲宗・穆宗・武宗・宣宗が金丹・丹薬を飲んだ記録。中文ウィキソースで照合)
・Zhao G. ほか "Mercury as a Geophysical Tracer Gas – Emissions from the Emperor Qin Tomb in Xi'an Studied by Laser Radar", Scientific Reports 10:10414(2020年。墓の上の空気の水銀。序論の「おそらく水銀中毒」に文献番号が無いことを本文で確認)
・常勇・李同「秦始皇陵中埋藏汞的初步研究」『考古』1983年7期(墓の真上の土の水銀。上の2020年の論文の文献表で確認。本文は未見)
・国家文物局 2025年9月15日の発表(尕日塘秦刻石。新華網 2025年9月16日ほかの報道で確認)
・距離:沙丘(今の河北省広宗県あたり)・井陘・九原・甘泉・咸陽の位置から本作で計算(どれも直線。通った道を点と点の直線でつないで約1300km、まっすぐ結んで約640km)。東京〜広島・青森〜鹿児島も直線
※『史記』と『趙正書』は、跡継ぎ(偽の手紙か、始皇帝の「よし」か)で話が違います。『趙正書』を『史記』より前の記録とみるか、のちの物語とみるかは、研究者の意見が分かれています(整理者の趙化成は前漢のはじめの成立とみる。辛德勇は小説とみる、ほか)。
※一行がなぜ北の九原まで回ったのかは、どちらの記録にも書かれていません。「死を隠すために遠回りした」とは言えません。また『趙正書』は、病になった場所を沙丘でなく「柏人」と書きます。
※始皇帝が水銀を飲んでいなかった、とまでは言えません。墓は発掘されておらず、体を調べた人はいません。『史記』には、方士が「練って」不思議な薬を求めたという記述もあります(材料は書かれていません)。言えるのは、いちばん古い記録に水銀を飲んだ話は無く、記録が書くのは薬が手に入らなかったこと、までです。終章の「のちの丹薬の話が重なって生まれたものだったのかもしれません」は本作の推定です。いつ・誰が言い出した話かは確かめられませんでした。
※『史記』は死の理由を「病」とだけ書き、病名はありません。亡くなった日(7月の何日か)は暦の復元のしかたで割れるので、本編では言っていません。
※黄河の源流の刻石は、「37年3月」の読みが画像の処理による判定で、偽物とみる説もありました(反論もあります)。
※墓の真上の土の水銀は、外から入った汚れとみる疑いも出されたことがあります。墓の中の水銀の量はどれも推計です。
※「1石」の塩漬けの魚は、重さか量かが書かれていません。唐の皇帝の丹薬の死のうち、憲宗は宦官に殺されたという噂も同じ記録に書かれています。
※地図の道すじ・地点の位置は概略です。
※人物・場面は作画による再構成です。
#始皇帝 #水銀 #世界史
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