秀吉の九州征伐、なぜ20万の大軍が必要だったのか|根白坂で島津が止まった日【豊臣兄弟!】
戦場の地図帳
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秀吉の九州征伐、なぜ20万の大軍が必要だったのか|根白坂で島津が止まった日【豊臣兄弟!】
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秀吉の九州征伐(九州平定、1586〜1587年)を、動く地図で解説します。大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長が東の道の総大将を務め、根白坂の戦いで島津を止めた戦いです。
1586年、九州。大友や龍造寺を次々に破った島津氏は、九州のほとんどを手中に収めかけていました。その島津に対し、豊臣秀吉は20万ともいわれる大軍の動員を命じます。のちに九州征伐と呼ばれる戦いです。対する島津の兵は、数万とされます。なぜ、これほどの数が必要だったのでしょうか。
そして島津は、本拠地の鹿児島が戦場になる前に降伏しました。よく言われる答えは「秀吉の圧倒的な物量」。間違いではありません。でも、それだけでは、20万という数の意味は見えてきません。
後半では、「なぜ20万だったのか」への四つの答えを地図に並べ、戦場の地図帳としての評価を述べます。
▼目次
00:00 オープニング:なぜ20万の大軍が必要だったのか
01:03 島津四兄弟:耳川と沖田畷の勝利
01:42 秀吉の停戦命令と大友宗麟の訴え
02:36 岩屋城の戦い:高橋紹運と700余りの兵
03:16 立花山城:島津の勢いが最初に止まった線
03:47 戸次川の戦い(答え①):野戦をさせない
05:10 20万の動員と兵站(答え②):一年分の兵糧
06:04 二つの道:秀吉は西へ、秀長は東へ
06:31 西の道と岩石城(答え③):見せる力
07:15 東の道:秀長、高城を囲む
07:55 根白坂の戦い(答え④):島津が止まった夜
09:09 島津義久の降伏:和睦を申し入れた相手は秀長
10:02 分析:四つの答えを地図に並べる
11:22 戦場の地図帳としての評価
12:28 その後:筥崎の国分けと、消えなかった島津
12:58 エンディング
▼この動画でわかること
・島津四兄弟と、耳川の戦い・沖田畷の戦いの勝利、そして秀吉の停戦命令
・岩屋城の戦い(高橋紹運)と戸次川の戦い(長宗我部信親の討ち死に)
・20万の動員と、30万人が1年食べられる兵糧を運ぶ仕組み
・秀吉の「西の道」と豊臣秀長の「東の道」、そして根白坂の夜
・島津義久の降伏と、筥崎での九州の国分け
▼なぜ20万だったのか:四つの答え
①野戦をさせない:少ない兵を送れば、島津が最も得意とする野戦を自ら差し出すことになる(戸次川の戦い)
②一年分の兵糧:大坂からおよそ580キロ離れた薩摩まで、1年戦い続けられる米と、それを運ぶ仕組み
③見せる力:わずか一日で落ちた岩石城(大きな宣伝効果があったとみる研究者もいる)
④根白坂の砦:数で勝る側は、城を囲みながら、救援の軍を待ち受ける砦も築ける