「鎖国」は外国人の論文から生まれた?ドイツ人医師ケンペルが見た江戸日本
大和ヒストリア
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「鎖国」は外国人の論文から生まれた?ドイツ人医師ケンペルが見た江戸日本
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「鎖国」という言葉は、いつ、誰が作ったのでしょうか?
実は、その言葉の誕生には、一人のドイツ人医師の論文が深く関わっていました。
江戸時代、日本に滞在したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル。長崎の出島で暮らし、江戸城で将軍に謁見した彼は、なぜ日本の鎖国政策を肯定的に論じたのでしょうか。
今回の「大和ヒストリア」では、ケンペルの『日本誌』と、志筑忠雄が1801年に訳した『鎖国論』を手がかりに、「鎖国」という言葉が生まれた経緯をたどります。
さらに、長崎・薩摩・松前・対馬という四つの窓口から、江戸時代の日本と世界のつながりを読み解きます。
【この動画でわかること】
・「鎖国」という言葉は誰が、いつ作ったのか
・ドイツ人医師ケンペルが見た江戸時代の日本
・長崎の出島とオランダ風説書が伝えた海外情報
・薩摩と琉球王国、中国との関係
・松前藩とアイヌ、ロシアとの接触
・対馬藩と朝鮮通信使、雨森芳洲の「誠信」
・ペリー来航の約1年前、幕府に届いていた海外情報
・「鎖国は200年以上続いた」という説明の数え方
鎖国とは、単純に日本が世界との交流を断っていた時代だったのでしょうか。
人や信仰の移動を厳しく制限する一方で、幕府は限られた窓口から海外の情報や物資を取り入れていました。
その仕組みがもたらした平和と、琉球やアイヌの人々、キリスト教徒、漂流民が背負った負担。その両面から、江戸時代の対外政策を考えます。
▼目次
00:00 「鎖国」という言葉の意外な始まり
00:50 キリスト教禁止と鎖国令の成立
02:04 第一の窓|長崎・出島とケンペル
04:27 第二の窓|薩摩と琉球王国
05:31 第三の窓|松前・アイヌとロシア
07:08 第四の窓|対馬と朝鮮通信使
08:51 ペリー来航の約1年前に届いた報告書
09:42 「鎖国200年」の数え方
10:17 鎖国政策はいつから変わったのか
10:35 四つの窓から見える江戸日本
11:36 ケンペルはなぜ鎖国を肯定したのか
12:22 「鎖国」という言葉が日本に広まるまで
▼参考文献・史料
・エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』(The History of Japan, 1727年刊)
・志筑忠雄 訳『鎖国論』(1801年)
・雨森芳洲『交隣提醒』
・申維翰『海游録』
・桂川甫周『北槎聞略』
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/ @yamato-historia
「大和ヒストリア」では、外国人の記録や当時の史料を手がかりに、学校の授業では詳しく語られない日本史を紹介しています。
次回は、開国後に日本を訪れた外国人たちが驚きとともに書き残した七つの光景をたどります。
あなたが四つの窓のうち、最も意外だと感じたのはどれですか?
長崎・薩摩・松前・対馬から、ぜひコメントで教えてください。
#日本史 #歴史解説 #鎖国 #江戸時代 #ケンペル