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🟥 関ヶ原前夜の謀議〜退耕庵(京都市)に安国寺恵瓊・石田三成・宇喜多秀家が集結〜

佐藤 六騎

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🟥 関ヶ原前夜の謀議〜退耕庵(京都市)に安国寺恵瓊・石田三成・宇喜多秀家が集結〜

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佐藤 六騎
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🟪 恵瓊は安芸の大名 武田氏の出自だ。 ▪安芸国の守護 武田家は広島市の北方に所在する銀山(カナヤマ)城🏯の城主であったが、恵瓊の曽祖父 武田元繁が毛利元就と戦って戦死し、恵瓊の父 信重のとき 銀山城は毛利氏により陥落して信重は自刃した。 ▪武田信重の遺児である 恵瓊(竹若丸・辰王丸)は幼くして安芸の臨済宗の中心的禅林 安国寺卍(広島市)に入り、成人して竺雲恵心という高僧の弟子になった。 竺雲恵心は毛利氏から尊崇されており、やがて京都東福寺(京都市東山区)の住持になって以降も毛利氏との関係は継続し、京都における毛利氏の外交交渉を担っていた。 ▪師である竺雲恵心について、恵瓊も東福寺に入って修行し、やがて竺雲恵心の行っていた毛利氏の外交担当の仕事を相続したのであった。 ★羽柴秀吉が播州三木城🏯を囲んでいた天正7年(1579)頃に、恵瓊は京の東福寺塔頭「退耕庵」の庵主となり京に常駐することになった・・・師の竺雲恵心が天正7年(1579)8月に亡くなった後を継いだのである。 ▪織田信長の指令をうけた羽柴秀吉が備中高松城🏯攻めが始まった天正10年(1582)頃に恵瓊は毛利氏に呼ばれた・・毛利家の山陽道方面担当の小早川隆景には、当初から外交交渉で織田家と対峙する意思があったのではないか――その可能性を歴史小説の大家 司馬遼太郎がその著書で言及している。 ★ あまりにも有名な信長の転落横死を予見した人物評価 …天正元年(1573年)12月12日付児玉三右衛門井上春忠宛書状で、「信長之代、五年 三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成らるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」という観察を吉川元春の側近に伝えた話。これは恵瓊の慧眼を物語る逸話として知られる。信長は公家になるが、その後は転落することを予言しているわけで、これは人相占いのようなことではなく、当時の畿内情勢を把握したものと考えられている。