【 宇佐神宮 】御祭神は第15代 応神天皇です。神功皇后(天皇)と第14代 仲哀天皇の子とされています。
かおるちゃん
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【 宇佐神宮 】御祭神は第15代 応神天皇です。神功皇后(天皇)と第14代 仲哀天皇の子とされています。
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かおるちゃん
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八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりの
お社(やしろ)があります。
宇佐神宮は、4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
八幡大神(はちまんおおかみ)。誉田別命(ほんだわけのみこと)。
大鞆和気命(おおともわけのみこと)。胎中天皇(たいちゅうてんのう)。
それぞれ応神天皇の別称です。
腕の肉が弓具の鞆(とも/ほむた)のように盛り上がっていたので、古事記では品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)、日本書紀では誉田別命(ほむたわけのみこと/ほんだわけのみこと)・誉田天皇(ほむたすめらみこと/ほんだすめらみこと)、と呼ばれる。
鞆とは弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕などに当たるのを防ぐ道具 ※中世頃には用いられなくなりました。
応神天皇は弓道の達人として伝わる。
応神天皇の最大の功績は、朝鮮半島(特に百済)との積極的な交流を深め、大陸の先進的な文化と技術を日本にもたらしたことです。
応神天皇は、百済から阿直岐(あちき)や、その後に来日した王仁(わに)を招き入れ、学問(儒教)の伝来を促しました。
王仁は『論語』や『千字文』などの典籍を伝え、これが日本の漢字文化と
儒教(じゅきょう)の受容の大きなきっかけとなりました。
土木、機織り、製鉄、焼き物など、様々な分野の技術者を招きました。彼らは渡来人(とらいじん)と呼ばれ、日本の産業・技術・文化の発展に大きく貢献しました。秦氏(はたうじ)や東漢氏(やまとのあやうじ)など、渡来系の氏族が多く来日し、後の日本の政治や文化の担い手となっていきます。
応神天皇は、これらの渡来人を優遇し、日本各地に住まわせることで、大陸の文明を国中に広めました。これは、日本の国家体制確立の土台を築いたと言えます。
応神天皇は、積極的に地方の豪族を統制し、中央集権体制の基礎を固める努力をしました。地方豪族を服属させるために、応神天皇自身が国内各地を巡幸し、服属しない豪族を討伐・平定しました。これにより、大和朝廷の支配領域が着実に拡大しました。
こうしたことも、応神天皇の武威を高め、武神として崇められる土台となりました。地方との連絡をスムーズにするため、また、国の統一を強固なものにするために、道路や水路の整備にも力を入れました。
応神天皇が八幡大神=八幡様として信仰されるようになったのは、
九州の宇佐(うさ:現在の大分県宇佐市)が発祥とされています。
八幡信仰の起源は、宇佐八幡宮(宇佐神宮)の伝承によると、
神功皇后の三韓征伐の偉業と、お腹の中の誉田別尊の武威が結びつき、
応神天皇は、やがて「弓矢八幡(ゆみやはちまん)」と呼ばれる武神、
八幡大神として崇められるようになりました。
仏教伝来後、神仏習合の時代では、八幡大神は仏教の菩薩(ぼさつ)とも
同一視され、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」とも呼ばれました。
神と仏、両方の威徳を併せ持つ神として、その信仰はさらに強大になりました。
八幡信仰は、特に武士(ぶし)たちから熱烈に支持されるようになります。特に、八幡大神は源氏の氏神となったことで、八幡信仰は拡大していきました。
清和源氏(せいわげんじ)の棟梁である源頼義(みなもとのよりよし)が、戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を創建し、
八幡大神を氏神と仰ぎました。
そして、源頼義の子孫である源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を建立し、八幡様を武家の守護神、源氏の守り神として全国に広めました。
「武運長久(ぶうんちょうきゅう:武人の運が長く続くこと)」や「必勝」を祈る神として、応神天皇を祀る八幡神社は全国に広がったのです。
<< 以下、神功皇后論 著者:小林よしのり >>
日本書紀には、神宮皇后は夫の仲哀天皇が崩御した後、
69年間にわたって「摂政」の座にあり、100歳で崩御したとある。
「摂政」とは、あくまでも「天皇の代理」だ。
では神功皇后は、どの天皇の代理を務めたのか?息子の応神天皇か?
神功皇后は三韓征伐の際には臨月の身で、帰国してから子を産んだ。
それが応神天皇である。
応神天皇は母のお腹の中にいたときから天皇という意味で「胎中天皇」と呼ばれたので、生まれてすぐに即位して、その摂政に神功皇后が就いたのかと思っていた。
だが、それは違う。応神天皇が即位したときの年齢は、なんと69歳!
応神天皇は、神功皇后が崩御した翌年にようやく即位した。
なお、書紀ではその後41年間在位して、110歳で崩御したことになっている。
この時代には「幼帝」を立てるという習慣はなく、キャリアを積んだ熟年者しか天皇になれなかった。
とはいえ、応神天皇は成年になっても中年になっても即位できなかった。
神功皇后が息子を嫌っていたわけではない。むしろ逆である。
神功皇后は自分の息子を皇太子にするために、仲哀天皇の先妻の子を殺したほどである!もしも応神天皇が未熟だったのなら即位させた上で摂政を続ければいいだけだ。
というより、そうしなければおかしい。
天皇が不在で摂政がいるというのは、通常ではあり得ないのだ。
皇位に就くべき人物がいないのならともかく、神功皇后自身が皇位に就けたいと願っている息子がいるのに、69年も天皇の座を空位にして、存在していない天皇の「代理」を続けたというのは、あまりにも不自然である。
これはもう考えられることは1つしかない。
神功皇后は摂政だったのではない。天皇だったのだ!
当時は「譲位」の制度がなかったから、応神天皇は神功天皇が崩御するまで即位できなかったのだ!それ以外あり得ない!
日本書紀も最初は「神功天皇」として一巻を充てていたのだろう。ところが、日本書紀はシナに向けた文書である・・・<< 神功皇后論 著者:小林よしのり 文章は続いていく。 >>
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。
亀山の麓、菱形池のほとり、三つの霊泉からなる御霊水は、上宮御本殿の真裏(北側)に位置し、往古、常に清水が湧き出で絶えることのない霊泉として知られています。
境内に建立されていた弥勒寺の僧、神吽が、鎌倉時代後半に纏めた『八幡宇佐宮御託宣集』には、八幡大神がこの御霊水の辺りに初めてご顕現になったと伝えています。
神護景雲3年(769)、女帝・称徳天皇 (復祚:孝謙天皇)の寵愛を受け、
しばしば政治に介入していた僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は皇位を狙い、「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが宇佐八幡大神よりおろされたと太宰主神(だざいのかんづかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という者に嘘の奏上をさせます。
宇佐神宮を深くご崇拝になっておられた天皇は、真相を確認するため、
すぐに官僚であった和気清麻呂公を派遣します。
清麻呂公は「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。
臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」とのお告げを受けます。
道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚(あし)の腱(けん)を切られた上、大隅国(鹿児島県東部)へ流されました。
翌年の神護景雲4年8月4日(770)称徳天皇が西宮神殿で崩御、
光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、同年9月6日清麻呂公は召し返され、翌宝亀2年3月29日(771)には元の位に着き、9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられたが、間もなく豊前の守(かみ)に還されました。
和気清麻呂公は古事にも通じ「民部省例(みんぶしょうれい)」や「和氏譜(わしふ)」を著し、当時の大事業である平安遷都の大功を残しました。
また道鏡は冠位をはがれ、下野国薬師寺別当として赴任(ふにん)させられましたが、宝亀3年4月7日にその生涯を閉じました。
世にいう「宇佐八幡神託事件」です。
このようにして、宇佐神宮の国体擁護のご神徳と、和気公の至誠の精神とが皇室をご守護することとなりました。この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使(うさづかい)また和気使(わけづかい)といい、和気氏が派遣されるのが例となりました。
清麻呂公は宇佐神宮末社、護皇(ごおう)神社に祭祀されています。
参考資料
・宇佐神宮ホームページ
・神功皇后論 著者:小林よしのり
・甲宗八幡宮ホームページ
・誉田八幡宮ホームページ
・それいけ!参拝ゴシュインマン。ホームページ。
・漫画 古事記 人代編
宇佐神宮
大分県宇佐市南宇佐2859
旅をしていると、八幡様を祀る
神社仏閣が非常に多いことに気づきます^^
その母が、偉大な神功皇后(天皇)だったとは!
旅をしながら日本を学ぶ。
日本を学びながら旅をする。
よろしくお願いします。
動画vol.93
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#宇佐神宮 #応神天皇 #八幡大神