三軒茶屋ナザレン教会礼拝説教「主は彼らと共に働き」2026年9月6日
三軒茶屋ナザレン教会
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2026年9月6日 礼拝式説教
マルコによる福音書16章14~20節
「主は彼らと共に働き」
日本ナザレン教団三軒茶屋教会
牧師 石川博詞
<説教から> キリスト教会の礼拝メッセージでは、どのような言葉が多く使われているでしょうか。もちろん「キリスト」「十字架」「愛」「復活」「信仰」「聖書」といった単語が特に多いことは調べるまでもないことですから、それ以外にはどのような言葉が用いられているか興味があります。きっと福音的なプロテスタント教会の場合は、「希望」が多く使われているのではないかと思います。人は生きる上で、誰しも、さまざなな困難、試練、心配事と無縁ではいられません。そうした辛い日常を乗り越えて行うとして、一生懸命自分を鍛えるわけですが、そうした熱意、気力を保ち続ける原動力が「希望」だと思うからです。困難を乗り越えるために自分を鍛え、頑張り続けていくためには、努力が必ず報われるのだという「希望」が必要だからです。「希望」がないのに、諦めずに努力し続けよと言われても、それは厳しいことです。
今、マルコによる福音書から、イエス様の弟子たちの中に、復活されたイエス様が現れてくださった出来事を読みました。十字架の上で、むごい最期を遂げられたイエス様のお姿を目撃し、そのご遺体を洞穴の墓にお納めした弟子たちにとって、イエス様がこの世にいらっしゃらないのだという絶望と悲しみ、そしてこれから自分たちはどうなってしまうのだろうという不安は、まるで墓の入り口を閉じている石の戸のように重く、ビクともしなかったことでしょう。弟子たちからは、希望が失われていたのです。
すると復活されたイエス様は、弟子たちが希望を見失ってしまっている様子をご覧になり、直ちに、それを指摘されました。それが14節の「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」です。弟子たちの「不信仰」すなわち、信じようとしない心こそが、希望を失ってしまっている状態の根本原因なのだとのご指摘です。信じる力を自ら放棄してしまっている状況、それが問題の根本なのです。
16節をご覧ください。さらにイエス様は弟子たちに向けて「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と言われました。これを「信じようとしない者など罰してしまうぞ」という脅しでなどと受け止めてはなりません。信じないことは、希望から離れ、自ら滅びを受け入れてしまうということなのです。とにかく、希望は信じる心から生まれるのです。自身がある人、確証を得た人だけが「希望」を持てるのではありません。真の希望とは、そのように自分の力に頼ることで抱けるものではないのです。まことの主なる神様を信じてこそ、与えられるのです。信じることは誰にでもできることです。もし、そうでなければ、希望は限られた条件がそろった人しか持てなくなってしまいます。それでは、能力や幸運に頼る他ありません。そうではなく、希望は信じる者にこそ与えられるのです。主イエス様がお与えくださる真の希望は、復活を信じる信仰によってのみ与えられる確かな恵みなのです。
とは言え、私たちは厳しい試練の現実ばかりが続きますと、落胆してしまい、主なる神様の愛とイエス様の十字架と復活を信じて希望に生かされていることを忘れてしまうことがあります。それは私たちの力に限りがあるからです。もちろん、力は人によって差があります。しかし、無限の力など誰も持っていません。それは主なる神様だけがお持ちなのです。私たちクリスチャンも、イエス様の直弟子たちと同じく、自分の力だけでは立ち止まらざるを得ない者でしかありません。しかし、立ち止まってしまったその所で、改めて「主よ、信じますと、主なる神様に叫ぶことができるのが私たちクリスチャンなのです。もう私にはどうしようもなくなってしまったからこそ、そこから主なる神様の完全な御力が働いていることが分かってくるのです。自分の力に頼ってた間には見えなかった主の御力が感じられるようになるのです。それは神様が、私のことを信じていてくださるという事実であり、私への愛なのです。それを感じることができるようになることこそが、信じるということであり、そこから真の希望に満たされるのです。
自分を超えた絶対的で、完全な存在、そんな神様が私と共にいつもいてくださり、私を導いていてくださると信じられるなら、私の力だけではとても乗り越えられない時も、諦める必要などありません。大丈夫なのです。いえ、むしろそこから主なる神様の働きを本当に身近に受け止められるようになるのです。だからこそ、私たちが最も注意していなければならないこととは、心がかたくなになってしまい、信じなくなってしまうことなのです。これからも、主なる神様の御力と導きを信じて、共に進んで行きましょう。
主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。