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三軒茶屋ナザレン教会礼拝説教「主が用意してくださる新たな出会い」2026年9月27日

三軒茶屋ナザレン教会

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三軒茶屋ナザレン教会礼拝説教「主が用意してくださる新たな出会い」2026年9月27日

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2026年9月27日 礼拝式説教 使徒言行録13章44~52節 「主が用意してくださる新たな出会い」 日本ナザレン教団三軒茶屋教会 牧師 石川博詞 <説教から> 使徒パウロとバルナバは、罪なき主イエス様が十字架に掛けられて葬られ、その後、死から復活されたこと、そして、主イエス様を信じるなら、誰でも罪赦され、命の復活を約束されることを、ピディア州のアンティオキアの会堂で、会衆に向けて大胆に語りました。この驚くべき良き知らせ、福音を聞いた会衆は、次の安息日にも同じことを語るよう頼みます。そして、次の安息日には、何と町中のほとんどの人がパウロたちの話を聞くために集まってきたのです。本当に祝福に満ちた福音宣教の様子です。  ところが、その様子を見てひどく妬んだ人々がいました。それはユダヤ教の伝統に固執していた人々でした。彼らはパウロを口汚くののしったと書かれています。主なる神様を信じている者同士であるならば、共に福音を喜び、賛美するべきなのに、ののしるとは驚きです。  では、彼らはどうして、ひどい妬みの感情に汚染されてしまい、かつののしったのでしょうか。それは、ユダヤ教の伝統に添って生きてきた自分たちこそが、神の教えの主流派であって、突然やって来て、主イエスの福音を新たに説き始めた者などが、このように人気を博すなど、とても受け入れられないと感じたからです。これは信仰ではなく、まさに人間の感情そのものです。  ユダヤ教の伝統に固執するとは、律法をどれだけ知っていて、完全に守っているかということ、すなわち律法主義です。ですから、律法を守っている自分たち以外、ましてや異邦人が、誰でも主イエスを受け入れさえすれば、主なる神様から罪を赦されて、復活し、永遠の命を約束されるなどという話は、到底受け入れられなっかったのです。彼らにとってみれば、そんなことは神を冒涜していることだとさえ感じたことでしょう。しかし、彼らが感じたその怒りは、神が冒涜されたからではなく、自分たちのプライドが傷つけられたためだったのです。彼らは、そのことに気づいていないのです。伝統的なユダヤ教の律法を守っていることで「自分たちこそ特別に神に認められているのだ」「自分たちこそが正しいのだ」と固く信じてきたのに、すべての人に神の救いが与えられるなどという教えは受け入れ難かったのです。  もちろん主なる神様は、伝統的なユダヤ教の人々をも愛し、彼らにも御言葉を示してくださっていました。にも関わらず彼らは聞こうとも、心を開こうともしなかったのです。46節をご覧ください。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」とあるように、「まず」自分たちに語られていたというのに、それを自ら拒んでしまったのでした。そのために、主イエス様の福音を語るパウロたちを、ひどくねたみ、口汚くののしったのです。  主なる神様の愛、その尊い御恵みは、地の果てに至るまで、すべての人に与えられています。決して、特定の民、特別な資格を持っている人にだけ与えられるのではありません。主なる神様が見る特別な存在とは、すなわちすべての人なのです。とは言え、私たち人間は、どうしても自分のプライドをひけらかしたいという思いに駆られてしまいがちです。「私だけが」という思いに酔いたいのです。それによって満たされたいという欲求があります。だから、つい周囲と自分を比べてしまうのです。でも、そうした欲求そのものを否定する必要などありません。なぜなら、主なる神様が、この私を特別な存在として受け止め、愛していてくださることに気づけば良いからです。ここでパウロたちをひどくねみ、ののしったユダヤ人たちも、その真実に気づけたら良かったのですが、彼らは自ら聞くことも知ることも拒んだままでした。  私たちは、慣れ親しんできたことに、どっぷりと浸かってしまっていますと、どうしても違うもの、不慣れな事柄に居心地の悪さや、不安を感じてしまいがちです。でも、そうした心の思いを放置したままでいたなら、自分自身が萎縮してしまいます。主なる神様は、いつも私たちクリスチャンに新しい出会いをご用意くださっています。ですから、慣れてはいないことに多少はまごつくことがあったとしても、その先に必ず豊かな恵みが用意されていると、主なる神様を信じて踏み出していきたいと思います。  先週23日(水)には、目黒教会で関東地区秋季聖会が開催されました。普段中々会うことがない兄弟姉妹、先生方が共に、アンサンブル・パッセロの奏楽に合わせて賛美してくださいました。一体どんな人たちが奏楽するのか、その技量を見定め、納得してから賛美し合えたのではありません。挨拶さえ交わす前に、まずは主の御名を賛美し合えたのです。このように豊かな恵みを分かち合えるチャンスは他にありません。また、来月10日(土)には、この教会でNGCの集まりがあります。全国のナザレン教会の青年たちが、ここに入り切れないほど集まり、賛美と祈り、そして御言葉に耳を傾ける時を持ちます。その多くの青年たちが、初めて三軒茶屋教会に来る人たちです。まだ会ったこともありませんが、でも、すでにみんなの心はこの会堂に向けられています。新しい出会いはすでに始まっているのです。この出会いの中に、ひどいねたみの思いや、口汚いののしりの言葉などまったく必要ありません。只々、きよい主なる神様の霊に満たされて、感謝し合うのみです。この新たな出会いに期待しましょう。そして、新たに始まる希望の信仰人生を心から喜び合いたいと思います。感謝しましょう。  主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。