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米朝 小さん 枝雀 志ん朝 千弐百参拾四って噺【落語】看板の一 二人旅 三十石夢の通い路 四段目

落語ch:荒獅子男乃助

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米朝 小さん 枝雀 志ん朝 千弐百参拾四って噺【落語】看板の一 二人旅 三十石夢の通い路 四段目

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落語ch:荒獅子男乃助
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0:48看板の一 16:18二人旅 40:58三十石夢の通い路 1:32:14四段目 2:25:41エンドトーク 「看板の一」 古典落語の演目。「看板のピン」とも表記する。もとは江戸落語の演目で、3代目桂米朝が上方落語に移入した。サイコロ賭博を扱った落語の演目としては他に「狸賽(狸の賽)」があり、5代目柳家小さんによると、3代目桂三木助は本演目を「狸賽」のマクラに使っていたという。若い者は寄ると触るとサイコロ賭博を始めます。そこに昔の親分がやって来た。負けた奴ばかりが残ったので、筒(どう)をやってくれと頼まれた。やりたくないが、歳をとったので目が良く見えないと言いながら壷を振った。サイコロが飛び出してピンが出ていた。「さ~、はれ。勝負はこの壷の中だぞ」。みんな飛び出したピンに張った。中には褌に挟み込んだ金まで出して張った。「もう一度言うぞ。勝負は壷の中だ」「へい、分かっています」「いいか、ピンに皆張って偏ったが、残りの目が出たら俺の勝ちだ。で、看板のピンはこちらに閉まって」「ええ!」勝負は壷の中と言っただろう・・・ 三代目 桂 米朝 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興に大きく貢献した。その功績から、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。位階は従三位。戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月にも出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。 「二人旅」 上方落語の東の旅の「煮売屋」の部分を四代目柳家小さん師が東京に移したもので、早くても大正後期以後には東京で演じられるようになったと云われてます。謎掛けや都々逸を入れたのは小さん師の工夫だと云われていて、これによって、元の噺の感じがかなり変わり、のんびりと田舎の道を歩く噺になりました。談志師曰く、気楽な二人連れの道中噺で、寄席で時間の無い時とかにやる噺で、何処でも切れるし、あまり力を入れなくていい噺だ。謎掛けや都々逸を入れたのは小さん師匠の工夫だと云われていて、これによって、元の噺の雰囲気がかなり変わりのんびりと田舎の道を歩く噺になりました。柳家のお家芸のような噺ですが、最近は演者も少なくあまり聴かない噺です 五代目 柳家 小さん 滑稽噺(こっけいばなし)をもっぱら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で、1960年代には落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸は有名であり、日本一であるとの声が多い。本人も蕎麦を実際に食する際は、職業柄周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたらしく、最晩年になってから、「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。生涯を通じて剣道を続け、範士七段まで昇段した。剣道専門誌の「剣道日本」の記事にたびたびなっており、「落語と剣道、どっちが好きかって聞かれたら、剣道って言いますよ」と語ったことがある、子供の頃は剣道で身を立てようとも思ったが、稽古のし過ぎで体を壊し断念した。前座時代の1936年、歩兵第3連隊に徴兵され、同年2月26日に起こった二・二六事件では、決起部隊である野中四郎隊の重機関銃兵として出動したが事前にまったくクーデター計画を知らされず支給された実弾を見て演習じゃないんだと気づいたという。1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。位階は従五位。 「三十石」 上方落語の演目。または「三十石夢乃通路(さんじっこくゆめのかよいじ)」 本来は旅噺「東の旅」の一部であり、伊勢参りの最終部、京から大坂の帰路の部分を描いた部分で、京と大坂を結ぶ三十石舟の船上をおもな舞台とする。現在は独立して演じられることが多い。6代目圓生はこの話をより良く仕上げるために、5代目松鶴に教えを請うたという。また6代目圓生は舟歌の件りでいいノドを聴かせていたが、この舟歌の部分も5代目松鶴の教えによる部分が大きいという。京都見物が済んで伏見街道に出てきた二人。お土産に伏見人形を買って歩き始めたが足に豆が出来たので何処かで休もうと言いだした。もう少しで夜船というのがあって寝ている間に大坂に着くという船がある。それで行けば、大坂には遊ぶところがいっぱい有るから楽しみにしていろと励まされた。 二代目 桂 枝雀 入門時から稽古には熱心で、深夜の歩行中にネタ繰りをして警察に通報されたり、ネタ繰りに没頭するあまり掃除機を部屋の随所にぶつけて什器を壊したりした。米朝の妻は、「周りを気にせずのめり込む人は、後にも先にもあの子のほかにはいなかった」と評している。この「私生活の間も落語の稽古をする」という習慣は、枝雀として名をなした後年も変わらなかった。1973年(昭和48年)10月に道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名。この襲名は、6代目笑福亭松鶴の「小米には枝雀という名前がええで!」という意向で決まった。これを機にそれまでの落語を大きく変える。初代桂春団治にもたとえられる所作や声の激しい芸風となり、多くの観客を爆笑させ、大衆的な人気を得た。1997年高座で「鬱なんです」と告白し、客席の笑い声に「笑いごとじゃないんですよ」と続けた。この会の後、出演を控えて闘病生活に入る。復帰するものの満足のいく口演が出来ず1999年自宅で自殺を図り病院に搬送され同年4月19日に心不全のため死去。満59歳没。遺書やそれらしい発言は全くなく、真相は不明。 「四段目」 題である「四段目」は「仮名手本忠臣蔵」の四段目のことであり、落ち(サゲ)は判官切腹の段を踏まえたものである。別題に「蔵丁稚」。上方落語の『蔵丁稚』が東京に移植され江戸落語では「四段目」の題で演じられるとされているが東京でも古くから演じられていた。「仮名手本忠臣蔵」の同じ場面を落ちに使う演目に「淀五郎」があり、海賀変哲(かいが・へんてつ)の「落語の落(さげ)」ではそちらを「四段目」とするが、武藤禎夫は「やはり本話の方が妥当であろう」と述べている伊勢屋の丁稚である定吉は大の芝居好きで、その日も主人の使いの最中につい芝居の立ち見をしてしまい遅くなって帰ってくる。主人の咎めに対し定吉は嘘をついて誤魔化そうとするが主人は騙されない。定吉もサボっていたことを認めない、そこで主人は、わざと忠臣蔵の間違った筋書きを話すと定吉はつられて芝居話をしてボロを出してしまい主人に蔵に閉じ込められてしまう。 三代目 古今亭 志ん朝 当初は歌舞伎役者を志しており、噺家になる意志はなかったが父の志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けない」新国劇に入りたいと言うと、母親から「怪我をするからダメ」「噺家は扇子一本で偉くなれるんだから」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた トークなしで純粋に落語だけを楽しみたい方はこちらでどうぞ 落語の蔵:   / @repli455   トークをもっと楽しみたいと思ったらこちらもどうぞ 荒獅子男乃助:トークチャンネル    • 荒獅子男乃助:トークチャンネル   #米朝 #小さん #枝雀 #志ん朝 #落語 #看板の一 #二人旅 #三十石夢野通い路 #四段目