Перейти к содержимому

米朝 枝雀 志ん朝 小三治 雲助 小春団治 リク特 落語の絹の道4【落語】ざるや 米揚げ笊 酢豆腐 ちりとてちん 骨つり 野ざらし

落語ch:荒獅子男乃助

0:00 / 0:00

米朝 枝雀 志ん朝 小三治 雲助 小春団治 リク特 落語の絹の道4【落語】ざるや 米揚げ笊 酢豆腐 ちりとてちん 骨つり 野ざらし

4 137 просмотров · 1 месяц назад
落語ch:荒獅子男乃助
23,2 тыс. подписчиков
4 137 просмотров · 1 месяц назад
0:55ざるや 13:38米揚げ笊 35:07酢豆腐 1:06:35ちりとてちん 1:23:18野ざらし 1:44:35骨つり 2:13:56エンドトーク 「ざるや」 上方落語では「米揚げ笊(いかき)」初代桂文団治が作(大阪)、東京では八代目桂文治が演じたとされています。「上がる」「昇る」といった験を担いだ言葉を連発するざる屋が、客の相場師を喜ばせてご祝儀をせしめる。株を初めて「上がる」「昇る」とか験の良い言葉を好む商家の旦那が、ざる屋のお使いをはじめたばかりの高台に住む「上田登」君に、ことごとく縁起が良いと大盤振る舞いを始めて・・・ 六代目 五街道 雲助 2023年7月重要無形文化財保持者認定 2025年春の叙勲で旭日小綬章受章 代数については確かな資料もなく分からないのだが二ツ目昇進時、師匠の十代目金原亭馬生にお願いをして手拭いの柄を描いて貰った時に「六代目でいいやなぁ」と言われ、そのまま手ぬぐいの柄にも「六代目」と描かれたのでずっと「六代目」と名乗っている。前座で駒七と名乗っていた頃に師匠の馬生から、長女である志津子(池波志乃)の前で「一緒になる気はないか」と結婚を打診された事がある。自身が珍しい名前を名乗っていることから、弟子には真打昇進と同時に珍しい名前を名乗らせている。 「米揚げ笊」 初代 桂 塩鯛原作。塩鯛の名を継ぐ者はこの噺も継承していくことになっている。笊(ざる)は大阪ではいかきと呼ばれる。舞台は米相場の立つ、堂島で東京の蠣殻町のような所です。甚兵衛に勧められた男が天満の源蔵町の笊屋重兵衛の所で売り子の仕事を始める。重兵衛から「叩いてもつぶれるようなもんと、品物が違います」というセールストークを教わる。男は「大豆、中豆、小豆に米を揚げる笊」を売り歩き、堂島の米相場界隈にやってくる。強気の相場師が「米を揚げる」という声を聞いて「こりゃゲンがええ」と大歓迎し、男を店に招き入れる。相場師は「跳び上がるほど嬉しい」「神棚に上げて」などの言葉にどんどん景品をあげる。男の家族の話で「姉が上町の上潮町の上田屋」「兄が淀川の上の京都」「背の高い鼻の高い、威高い気高い男」など「上」や「高い」という言葉が出る度に相場師が大喜びする。ところが・・・。 「酢豆腐」 今日は横町の旦那の誕生日、喜ィさんを呼んで昼間から一杯やる。世辞の上手い喜ィさんは、まずは旦那は年より若く見えるからに始まり京都の知り合いからもらった白菊という酒を「幻の名酒」だと誉めて美味そうにグビグビ呑み鯛の刺身を生まれて初めて食べると言って、ワサビ醤油も誉め寿命が延びますなんて調子のよさだ・・・ 三代目 古今亭 志ん朝 当初は歌舞伎役者を志しており、噺家になる意志はなかったが父の志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けない」新国劇に入りたいと言うと、母親から「怪我をするからダメ」「噺家は扇子一本で偉くなれるんだから」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた 「ちりとてちん」 食通を気取る男に腐った豆腐を「珍味」と偽って出しプライドから男が食べたくないという感情を押し殺して口にする様を描く。古典落語「酢豆腐」から派生した噺の一つ。原話は江戸時代中期の1763年(宝暦13年)に発行された『軽口太平楽』に収められている。腐った豆腐を意地を張って食べるという内容は、それよりも早い1754年(宝暦4年)の『軽口豊年遊』第3巻「酢豆腐」に見える。『桂文楽全集』下巻の「作品解説」は『軽口豊年遊』を「原典」とした江戸生まれ江戸育ちの落語で、これがのちに上方にわたって『ちりとてちん』となり、現在に伝わる」と記されている。 三代目 桂 小春団治 創作を得意とし、約45席を持つ。一方で古典にも造詣が深い。最も好きな古典落語は『ちりとてちん(酢豆腐)』キャッチフレーズは「世界でも通用する落語家」活動の場を世界にも広げ、字幕を使った落語を披露するなど、ユニークな取り組みで知られており、世界最大の芸術祭エジンバラ・フェスティバルに落語家として初めて参加し国際演劇祭の招待公演や各国大使館の主催公演などで海外公演を果たしている。またハーバード大学、コロンビア大学などアメリカ名門大学での講演の実績もあり、2007年には落語家初のブロードウェイ公演も行った。Newsweek日本版の特集「世界が尊敬する日本人100」に選ばれる 「野ざらし」 古典落語の演目。「野晒し」とも表記する。別題に「手向の酒(たむけのさけ)」。上方落語では「骨釣り(こつつり)」。上方の「骨釣り」は長らく埋もれて忘れられていたが、1970年ごろに3代目桂米朝が古老の桂右之助から聴き取り、東京に残る「野ざらし」を元に仕立て直した。ある夜、八五郎が長屋で寝ていると、隣の女嫌いで知られた浪人・尾形清十郎の部屋から女の声が聞こえてくる。翌朝、八五郎は、尾形宅に飛び込み、事の真相をただすと尾形はとぼけてみせるが、八五郎に「ノミで壁に穴開けて、のぞいた」と明かされ、呆れたと同時に観念して、「あれは、この世のものではない。向島で魚釣りをした帰りに、野ざらしのしゃれこうべを見つけ、哀れに思ってそれに酒を振りかけ、手向けの一句を詠むなど、ねんごろに供養したところ、何とその骨の幽霊がお礼に来てくれた」と語る・・・ 十代目 柳家 小三治 「まくらの小三治」と呼ばれるほど、まくらに力を入れており小三治のまくらを聴きに寄席に足を運ぶ常連もいたという。中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定され東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われ四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽に並び本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し大看板となった落語家のひとりである。弟子や若手に対する指導が厳しいことで知られていた。池袋演芸場で行われていたある日の「二ツ目勉強会」では、芸を批評するために小三治が来場することが出演者に告げられると、リラックスしていた楽屋に一気に緊張感が走り、強面で知られる三代目橘家文蔵(当時:橘家文吾)は落ち着きを失って顔面蒼白になったり、三代目柳家甚語楼(当時:柳家さん光)は固まったように黙ってしまったという。中には「噺家を辞めて故郷へ帰れ!」と小三治に叱責された二ツ目もいたとされる。 「骨つり」 古典落語の演目。「骨釣り」とも表記される。江戸落語に移植されて「野ざらし」となった。別題に「手向の酒(たむけのさけ)」。噺の成立過程ははっきりしない、「骨釣り」のほうが原話の構造に近い。江戸の「野ざらし」は、「托善の正蔵」こと2代目林家正蔵が「笑府」をもとに仕立て、初代三遊亭圓遊が現在の陽気な滑稽噺の形に改作したとされる。上方で「骨釣り」は長らく埋もれて忘れられていたが、1970年ごろに三代目桂米朝が古老の桂右之助から聴き取り、東京に残る「野ざらし」を元に仕立て直した。「野ざらし」の場合、サゲまで演じられることはまれで、多くは途中で噺を終える。 三代目 桂 米朝 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興に大きく貢献した。その功績から、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。位階は従三位。戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月にも出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。 トークなしで純粋に落語だけを楽しみたい方はこちらでどうぞ 落語の蔵:   / @repli455   トークをもっと楽しみたいと思ったらこちらもどうぞ 荒獅子男乃助:トークチャンネル    • 荒獅子男乃助:トークチャンネル   #米朝 #枝雀 #志ん朝 #小三治 #雲助 #小春団治 #落語 #ざるや #米揚げ笊 #酢豆腐 #ちりとてちん #骨つり #野ざらし