Перейти к содержимому

3つの大国に囲まれた真田|絶体絶命を乗り切った天正壬午の乱から上田合戦までの地図

地図で紐解く戦国

0:00 / 0:00

3つの大国に囲まれた真田|絶体絶命を乗り切った天正壬午の乱から上田合戦までの地図

13 803 просмотра · 10 часов назад
地図で紐解く戦国
2,55 тыс. подписчиков
13 803 просмотра · 10 часов назад
天正13年(1585)閏8月の第一次上田合戦で、信濃の上田城に攻め寄せた約7000の徳川の軍を、約2000の真田が退けました。 徳川・北条・上杉、3つの大国に囲まれた小さな真田は、どう生き残り、徳川の大軍を破ったのか。始まりは3年前、本能寺の変のあとに3つの大国が甲斐・信濃・上野を奪い合った、天正壬午の乱にありました。この乱から上田合戦までの3年を、月ごとの地図と、上田の盆地の3D地形図にしました。 ■ チャプター 0:00 はじめに 1:13 武田が滅んだあと 2:11 6月 本能寺の変と三つの空白 4:45 7月 三つ巴(北条・上杉・徳川) 6:34 8月 若神子と新府、黒駒の戦い 8:03 9〜10月 真田は徳川方へ、和睦 9:39 沼田の火種 11:50 上田合戦の前夜 13:45 上田合戦 16:01 その後 17:08 結び(地図で紐解くと見えること) ■ 地図の見方 色:赤=真田(縁の色が、その時の主君)/緑=徳川/紫=北条/青=上杉/朱=秀吉方/淡い色は、その大名に従う国衆です ■ この動画について ・兵力差:攻める徳川 約7000、守る真田 約2000。大きさは、家康の5か国 約118万石に対して、真田 約10万石(目安) ・武田が滅んだあと(天正10年3月):甲斐は河尻秀隆、川中島4郡は森長可、上野と信濃の佐久・小県は滝川一益。真田昌幸は滝川の与力になり、のちに「幸村」の名で知られる次男の信繁を人質に出した。武田が滅ぶ前の上野は、西と北が武田、東の新田・桐生・館林は北条に付く国衆(由良国繁・長尾顕長)だった ・6月:本能寺の変。河尻秀隆は一揆に討たれ、森長可は退き、神流川の戦いで北条が滝川を破る。真田は沼田城を取り戻し、上杉に付く(主君を変える1度目)。この争いが天正壬午の乱 ・7月:北条の大軍が信濃へ。真田は北条に寝返る(2度目)。家康は約8000で甲斐へ。小県は、北条・上杉・徳川のちょうど真ん中にあった ・8月:若神子の北条と、新府城の家康が80日にらみ合う。黒駒の戦いで、徳川の約2000が北条の約1万を退ける ・9〜10月:国衆が北条を離れ、真田も徳川に付く(3度目)。依田信蕃と真田が北条の補給の道をおびやかし、10月に徳川と北条が和睦。上野は北条のものと決まったのに、沼田と吾妻は真田が手放さなかった ・沼田の火種:依田信蕃の戦死。天正11年、昌幸は上田城を築き始める。家康の沼田の引き渡しの求めを拒み、天正13年7月に上杉に寝返る(4度目) ・上田合戦:閏8月2日、神川を渡った徳川の軍を城下へ誘い込み、千鳥掛けの柵で詰まらせ、戸石城の信幸が横から突く。逃げる先の神川は増水していた ・その後:丸子城の約20日、井伊直政らの援軍と撤退、北条に攻められても沼田は落ちず、11月13日に石川数正が秀吉のもとへ。真田は秀吉に従う ・結び:戦う理由になった沼田も、戦いの舞台になった上田城も、3年前の天正壬午の乱が生んだもの。勝ち方は、城を囲む盆地の地形にあった。上田は徳川・北条・上杉の三つの大名の境目にあり、上田の盆地は城と支城に囲まれていた ■ 数字について 動画の数字は、よく伝わっているもの(通説)か、第1回と同じ数え方で出した目安です。 ・上田城を攻めた徳川の軍:約7000(ウィキペディア「上田合戦」。上田市の資料では「7千余」) ・守る真田:約2000(ウィキペディア「真田昌幸」「上田合戦」の戦力欄。「上田合戦」の本文では約1200) ・徳川の死者:1300(真田方の書状による。徳川方の大久保忠教が書いた『三河物語』では300余り。2000とする記録もあります)。真田の死者は40ほど(ウィキペディア「上田合戦」) ・神流川の戦い:北条 約5万、滝川一益 約1万8000(ウィキペディア「神流川の戦い」) ・信濃に入った北条の軍:4万を超える(4万3000・5万・5万5000と記事によって分かれます) ・黒駒の戦い:徳川 約2000、北条 約1万(ウィキペディア「鳥居元忠」。「天正壬午の乱」では8000と3万5000) ・若神子と新府のにらみ合い:80日(ウィキペディア「北条氏直」)/家康が甲斐に率いた軍:約8000(ウィキペディア「徳川家康」) ・丸子城の攻め:約20日、援軍:約5000(井伊直政・大須賀康高・松平康重。ウィキペディア「上田合戦」) ・家康の5か国 約118万石、真田 約10万石、沼田と吾妻 約7万石(目安):第1回と同じ数え方で、慶長3年(1598)の国ごとの検地高を郡の平地の広さで割り振りました。真田は小県・利根・吾妻の3郡(上田市の歴代城主の表では9万5000石)。この頃の真田や徳川は、領地を石高ではなく貫高(銭)で数えていました ・暦:閏8月は、この年に2度目に来た8月です。閏8月2日は西暦1585年9月下旬(新月の計算から)。天正13年11月13日は1586年1月2日 ■ 出典 ・地形(標高):Copernicus DEM(GLO-30・GLO-90)を加工して作成(2Dの地図と、上田の盆地の3D地形図) produced using Copernicus WorldDEM-30 © DLR e.V. 2010-2014 and © Airbus Defence and Space GmbH 2014-2018 provided under COPERNICUS by the European Union and ESA; all rights reserved produced using Copernicus WorldDEM-90 © DLR e.V. 2010-2014 and © Airbus Defence and Space GmbH 2014-2018 provided under COPERNICUS by the European Union and ESA; all rights reserved ・郡境:『歴史的行政区域データセットβ版』(CODH作成)doi:10.20676/00000447(CC BY 4.0)を加工(1920年の郡で近似)。元データは国土交通省「国土数値情報(行政区域データ)」(大正9年) ・上田城:上田市「上田城歴史年表」https://www.city.ueda.nagano.jp/uploa... ・上田市「上田城」https://www.city.ueda.nagano.jp/site/... ・神川の読み(かんがわ):コトバンク「神川」(日本歴史地名大系)https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E5... ・若神子城:コトバンク「若神子城」https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E7... ・地名の位置:国土地理院 地名検索(地名の代表点) ・人物・合戦・城:日本語版ウィキペディアの次の項目 合戦と出来事:天正壬午の乱・上田合戦・神流川の戦い・上野国 人物:真田昌幸・真田信之・矢沢頼綱・依田信蕃・依田康国・滝川一益・河尻秀隆・森長可・毛利秀頼・木曾義昌・小笠原貞慶・北条氏直・上杉景勝・徳川家康・鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉・井伊直政・石川数正・保科正直・諏訪頼忠・室賀正武・由良国繁・北条高広・那波顕宗 城と地名:上田城・戸石城・丸子城 (信濃国)・小諸城・岩尾城 (信濃国)・沼田城・名胡桃城・岩櫃城・松代城・長沼城 (信濃国)・松本城・高遠城・高島城・福島城 (信濃国)・飯田城 (信濃国)・新府城・若神子城・躑躅ヶ崎館・岩殿城・谷村城・前橋城・春日山城・小田原城・浜松城・岡崎城・大坂城・長島城・金山城 (美濃国)・信濃国分寺・碓氷峠・御坂峠・神川 (長野県) #上田合戦 #真田昌幸 #天正壬午の乱 #徳川家康 #戦国時代 #日本史 #豊臣兄弟