徳川慶喜は大政奉還のあとどうなったのか|30年沈黙した最後の将軍【ずんだもん&ゆっくり解説】
ずんだもんの歴史ファイル
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徳川慶喜は大政奉還のあとどうなったのか|30年沈黙した最後の将軍【ずんだもん&ゆっくり解説】
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教科書は、1867年で話を止めます。徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が終わった——そこからページは明治政府に切り替わり、慶喜という人はもう出てきません。
慶喜は、そのあと46年生きました。大政奉還が1867年(慶応3年)、亡くなったのが1913年(大正2年)。将軍だった時間より、将軍でなかった時間のほうがはるかに長いのです。
まず、朝敵になりました。鳥羽・伏見の戦いのあと大坂城を出て江戸へ戻り、上野の寛永寺で謹慎。次に水戸の弘道館へ移り、そして駿府——いまの静岡市の宝台院へ入ります。移された先で、寺から寺へと居場所が変わった1年でした。
静岡での暮らしは、そこから28年続きます。慶喜の屋敷跡はいま浮月楼という料亭になっていて、その公式サイトはこう書いています。「政治は一切遠ざけて趣味に没頭し、静岡の市民たちから『慶喜様』と親しまれました」。趣味は狩猟、囲碁、投網、鵜飼、油絵、自転車、そして写真。最後の将軍が撮った飼い猫の写真が、いまも残っています。
ただし、「なぜ黙っていたのか」は分かりません。恐れたのか、恥じたのか、判断だったのか——本人が語らなかったので、確かめようがないのです。この動画では、そこを埋めずに置いておきます。
沈黙が動くのは、1898年(明治31年)3月2日でした。皇居に参内し、明治天皇に謁見します。大政奉還から30年5か月ぶりの参内でした。そして1902年(明治35年)6月3日、公爵に叙され、徳川慶喜家を興し、貴族院議員になります。朝敵とされた人が、新しい体制の中に席を与えられました。
そして最後の6年で、ついに喋ります。旧臣だった渋沢栄一が、慶喜の伝記を編もうとしていました。当初の執筆者が病に倒れて中断したあと、1907年(明治40年)に歴史学者の三上参次・萩野由之を監修者として編纂が再開されます。慶喜本人に取材する会が開かれ、慶喜自身がそれを「昔夢会」と名づけました。1907年から1913年まで、17回。その記録が『昔夢会筆記——徳川慶喜公回想談』です。
『徳川慶喜公伝』全8巻が世に出たのは、1918年(大正7年)でした。慶喜が亡くなった、5年後です。
30年黙って、最後の6年で喋って、その本が出たのは死んだあとだった——それが、教科書の先にあった話です。
※本動画は公開情報(渋沢栄一記念財団・渋沢史料館の資料、浮月楼公式、東洋文庫ほか)をもとにした解説です。本動画は歴史上の人物を断罪も英雄化もせず、維新の是非には踏み込みません。数字は2026-09-03時点で確認したものです。
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気になる人物や事件があれば、コメントで教えてください。次のファイルの候補にします。
▼目次
0:00 降りたあとの人生
0:28 寺を移りつづけた年
1:47 猫を撮った男
4:00 参内という出来事
5:28 旧臣の企て
7:28 死後に出た8巻
※時間は目安です。
▼気になる人物・事件はコメントで
「あの人はそのあとどうなったの?」「この事件は誰が決着をつけたの?」という人物や事件があれば、教科書に出るものでも、名前しか知らないものでもかまいません。ぜひコメントで教えてください。
▼この動画で使った主な数字
・大政奉還:1867年11月9日(慶応3年10月14日)に大政返上の上表を奏上、翌日勅許
・明治天皇への参内・謁見:1898年(明治31年)3月2日=大政奉還から30年5か月ぶり
・静岡にいた期間:1869年10月〜1897年11月=28年1か月(※「静岡に30年」は誤り)
・大政奉還から死去まで:1867年11月〜1913年11月=46年
・公爵に叙され徳川慶喜家を創設・貴族院議員に就任:1902年(明治35年)6月3日
・昔夢会:1907年(明治40年)〜1913年(大正2年)に17回開催
・『徳川慶喜公伝』全8巻(本伝篇4巻+附録篇4巻)刊行:1918年(大正7年)=慶喜の死の5年後
・薨去:1913年(大正2年)11月22日
▼出典・参考
渋沢栄一記念財団 渋沢史料館「史料館だより」350号(渋沢栄一が1893年ごろから慶喜の伝記編纂を企図/動機は「明治維新時における慶喜の真意を正しく後世に伝えたい」という思い/当初の執筆者・福地源一郎の中断/1907年に三上参次・萩野由之を監修者として編纂再開/『徳川慶喜公伝』は大正7年に全8巻が刊行)
渋沢栄一編/大久保利謙 校訂『昔夢会筆記——徳川慶喜公回想談』(平凡社 東洋文庫、1966年)
浮月楼「歴史について」(明治二年に元の代官屋敷に手を入れて庭を作り約二十年住んだ/「政治は一切遠ざけて趣味に没頭し、静岡の市民たちから『慶喜様』と親しまれました」/庭園は国の登録記念物、建物は国登録有形文化財)
大政奉還・謹慎先の移動・参内・叙爵・薨去の年月日は複数の一般資料で一致する範囲のみを用い、単独資料しか無い日付は本編で読み上げていません。
「なぜ沈黙したのか」の理由は本調査で学術的な裏が取れなかったため、本編でも断定していません。
▼画像クレジット
1867年 大阪で撮影された徳川慶喜(将軍時代の古写真)|Frederick Sutton / Wikimedia Commons (Public domain)
上野 寛永寺の根本中堂|© Reggaeman / Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)
水戸 弘道館 至善堂 御座の間|© Asturio Cantabrio / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)
静岡 宝台院(現在の本堂)|© キナリケノス / Wikimedia Commons (CC BY 4.0)
静岡 駿府城公園の坤櫓|© Akahito Yamabe / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)
狩猟姿の徳川慶喜(静岡時代の趣味)|Unknown author / Wikimedia Commons (Public domain)
徳川慶喜が自分で撮影した飼い猫の写真|徳川慶喜 / Wikimedia Commons (Public domain)
晩年の徳川慶喜(大礼服姿の古写真)|Unknown author / Wikimedia Commons (Public domain)
明治宮殿 正殿の玉座(古写真)|Unknown author / Wikimedia Commons (Public domain)
京都 二条城 二の丸御殿|© Martin Falbisoner / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)
渋沢栄一の古写真|Unknown photographer / Wikimedia Commons (Public domain)
大政奉還を描いた邨田丹陵の絵(後世の想像図)|邨田丹陵 / Wikimedia Commons (Public domain)
谷中霊園にある徳川慶喜の墓所|© Nesnad / Wikimedia Commons (CC BY 4.0)
図解は本チャンネル作成
▼クレジット
音声:VOICEVOX:ずんだもん/VOICEVOX:中国うさぎ/VOICEVOX:玄野武宏
BGM:DOVA-SYNDROME(https://dova-s.jp)