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【三方ヶ原の戦い】家康は、なぜ城を出て信玄と戦ったのか|勝った信玄は「三河へ向かう途中だった」

タイムウォッチャー

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【三方ヶ原の戦い】家康は、なぜ城を出て信玄と戦ったのか|勝った信玄は「三河へ向かう途中だった」

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1572年の12月22日、浜松城の北の台地で、徳川家康は武田信玄に大敗しました。6日後、勝った信玄は「二俣の城の手直しが済んだので、三河へ向けて陣を進めていた。そこへ家康が兵を出してきた」と書いています。城にこもっていれば、信玄は通り過ぎたかもしれない。では家康は、なぜ城を出て戦ったのか。 家康が出た理由を書いた家康自身の手紙は見つかっていません。この動画では、信玄・信長・家康の手紙、信長公記・当代記、後の書物(三河物語・甲陽軍鑑)を、国土地理院の地形図の上に並べて見比べます。 書斎の「案内役」が話の入口と答えをご案内します。人物の台詞は、当時の手紙に書かれている文言を今の言葉に直したものです(作った会話は入れていません)。 0:00 はじめに 1:28 第1章 信玄、遠江へ 4:18 第2章 12月22日 8:44 第3章 後から足された話 9:32 第4章 勝った側の手紙 11:40 おわりに ■ シリーズ:戦国から江戸へ(年の順)    • 戦国から江戸へ(年の順)   ■ 関連 川中島の戦い|信玄と謙信は、なぜ5度も戦って決着しなかったのか    • 【川中島の戦い】信玄と謙信は、なぜ5度も戦って決着しなかったのか|どちらも「勝った」...   武田家|最強と呼ばれた武田は、なぜ7年で滅んだのか    • 【武田家】最強と呼ばれた武田は、なぜ7年で滅んだのか|勝頼は「二千でも三千でも」と書いた   浅井家|信長の義弟・浅井長政は、なぜ信長を裏切ったのか    • 【浅井家】信長の義弟・浅井長政は、なぜ信長を裏切ったのか|信長は「うそだろう」と思った   桶狭間の戦い|今川義元はなぜ、大軍を率いて敗れたのか    • 【桶狭間の戦い】今川義元はなぜ、大軍を率いて敗れたのか|負けた側の手紙は「思いもよらぬ」   ■ この動画の史料 ・武田信玄・織田信長・徳川家康・上杉謙信・松永久秀の書状(『岡崎市史』別巻中巻、渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』、『武田信玄事蹟考』、『上杉家文書』所収) ・武田家・徳川家の禁制(『静岡県史料』所収) ・太田牛一『信長公記』巻5(信長の家臣が書いた記録) ・『当代記』(当時の記録を取り込み、出来事を年ごとに書き留めた本) ・『史料綜覧』巻十・巻十一 ・『三河物語』『甲陽軍鑑』『東照宮御実紀附録』『改正三河後風土記』(後の時代の書物として、出どころを断って紹介) ・原史彦(2016)徳川美術館の論文(しかみ像の伝来) ■ 気をつけて読んだところ ・家康がなぜ城を出たのかを書いた家康自身の手紙は、今回調べた範囲では見つかっていません。今回確かめた家康の手紙で三方ヶ原に触れているのは「旧冬一戦」の一言だけです。 ・「信玄は三河へ向かう途中だった」は、勝った信玄自身の手紙によるものです。堀江城を落として浜松を干上がらせるねらいだった、とみる研究者もいます。 ・「物見の兵を連れ戻しに出て、思いがけず合戦になった」は当代記の言い分です。同じ当代記は、10月のところで家康は信玄と一戦するつもりだったらしい、とも書いています。 ・「わしの屋敷の背戸を踏み越えて通る者を…」という家康の言葉は、三河物語(1622年ごろ、著者は当時13歳ほどで参戦していなかったとされる)が伝えるものです。 ・祝田の坂・申の刻の開戦・犀ヶ崖の夜襲の場所は、後の書物(三河物語・甲陽軍鑑)によるものです。主戦場は4つの説があって決まっていません。 ・城の門を開けてかがり火を焚いた話は江戸時代の中ごろより後の書物の話で、甲陽軍鑑にも三河物語にも出てきません。 ・しかみ像を三方ヶ原と結びつけた例は、確かめられる限り昭和11年(1936年)の展覧会が最初で、所蔵の徳川美術館自身が史料の裏付けは無いとしています。 ・日付は当時の暦(和暦)です。元亀3年12月22日は、今の暦(グレゴリオ暦)では1573年2月4日にあたります。日の入り・月の出はその日付で計算した目安です。 ■ 人物の絵について 人物の絵と案内役は、史料の記述と肖像画の特徴をもとに生成AIで描いた想像図です。 ■ 地図・図について 地形図は国土地理院の標高データ(地理院タイル)から作図しました(今の地形・今の湖岸)。川の線は OpenStreetMap の今の川筋です。地図の薄い線は現在の県境です(国土数値情報「行政区域」を簡略化したデータ)。川筋のデータ © OpenStreetMap contributors(ODbL)。 ■ 画像(ウィキメディア・コモンズ) 武田神社(躑躅ヶ崎館跡) Saigen Jiro CC0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 天竜川と二俣(空撮) 663highland CC BY 2.5 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 岐阜城 Alpsdake CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 天竜川(鹿島橋付近) Halowand CC BY-SA 4.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 細江公園から見た三方原の台地 Sato S CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 甲陽軍鑑の刊本 Kagenori Obata CC BY-SA 4.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』(明治7年) Utagawa Yoshitora パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 犀ヶ崖の碑 立花左近 CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 浜松城(1958年の再建) Saigen Jiro CC0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館蔵、いわゆるしかみ像) anonymous パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 浜名湖北部(引佐細江) Sato S CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... 野田城跡 Mikkabie CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/Fi... #三方ヶ原の戦い #徳川家康 #武田信玄 #しかみ像 #戦国時代 #日本史