【関東大震災の炊き出し】避難者が押し寄せ、米が足りない。握り飯をどう増やしたのか?
あの日の食卓
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【関東大震災の炊き出し】避難者が押し寄せ、米が足りない。握り飯をどう増やしたのか?
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避難者が増え続けるなか、米だけを炊いて配り続けることはできるのか。
1923年9月、関東大震災後の大磯では、炊き出しの握り飯に「大豆」が加えられていました。
本動画では、神奈川県大磯町に残る警察署の震災日誌や当時の記録を手掛かりに、震災直後の炊き出しが、避難者の増加とともにどのように変わっていったのかをたどります。
震災翌日の9月2日。
小田原や真鶴方面から避難者が次々と大磯へ入り、警察署前には救護所や仮泊所が設けられました。
最初に空腹の避難者へ渡されたのは、警察署員のために準備されていた握り飯でした。
それがなくなると、今度は署員が貯蔵していた白米を炊き、再び握り飯にして配ります。
その後も避難者は増え続けました。
9月3日には仮泊所に約300人。
炊き出しに使われた米は5斗あまり、およそ75キロに達します。
そして9月4日。
警察署側の仮泊所には約400人が収容され、炊き出しには米3斗と豆1斗が使われました。
記録には、握り飯を「大豆入り」にした理由まで残されています。
食料を、少しでも長く持たせるためでした。
つまり、単純に「米が完全になくなったから豆を入れた」という話ではありません。
大磯には米そのものは残っていました。
問題だったのは、町の外から避難者が次々とやって来て、食べる人数が当初の想定を超えて増えていったことです。
さらに日誌には、出来上がったものを実際に試食し、「玄米飯より良好」と記した一文も残されています。
ただし、大豆をあらかじめ煮たのか、米と一緒に炊いたのか、一個の握り飯にどれほど入っていたのかまでは確認できません。
本動画では、記録から確認できる範囲と、分からない部分を分けながら当時の炊き出しを見ていきます。
9月5日には仮泊所の収容者が約500人に増え、炊き出し用として玄米1俵と大豆1斗が記録されました。
翌6日には、町役場の日誌に「玄米大豆飯」を供給したことが明記されています。
一方で、関東大震災の避難食がどこでも同じだったわけではありません。
火災を免れた地域では、七輪や急ごしらえの竈を使って屋外で米を炊き、普通の握り飯を分け合った例もあります。
東京・浅草では、震災から三日目の朝に浅草寺で玄米のおむすびを受け取ったという体験記も残されています。
その土地に残った食料。
外から届く物資。
水や燃料。
そして避難者の数。
震災後の食事は、こうした条件によって一日ごとに姿を変えていました。
しかも大磯の炊き出しは数日で終わったわけではなく、仮泊所が撤去される9月19日まで続きました。
関東大震災の握り飯に、何を混ぜたのか。
少なくとも大磯に残された記録が示す答えは「大豆」です。
しかし、その一粒の大豆から見えてくるのは、単なる代用食の話ではありません。
増え続ける避難者を前に、限られた食料をどう回し、どう一食でも長くつないだのか。
本動画では、その炊き出しの現実を史料からたどります。
【参考資料】
・大磯警察署に残された関東大震災時の震災日誌・関連記録
・大磯町郷土資料館・大磯町公開資料
・内閣府「災害教訓の継承に関する専門調査会」関東大震災関連資料
・東京・浅草地域に残された関東大震災の体験記・関連資料
限られた米を、より多くの避難者へ届けるために大豆を加えた握り飯。
皆さんは、この炊き出しの記録をどう感じましたか。
感じたことをぜひコメントで教えてください。
動画が参考になりましたら、高評価とチャンネル登録もよろしくお願いいたします。
※本動画は、歴史資料・研究・公的機関の情報をもとに、当時の食事と仕事、暮らしを解説することを目的として制作されています。
※映像は、当時の様子を分かりやすく伝えるため、AI技術を使用して再構成しています。
※史料が限られている部分については、確認できる炊き出し・食料供給・避難者に関する記録をもとにした再構成を含みます。大豆の具体的な調理方法や握り飯一個あたりの量など、記録から確認できない部分を断定するものではありません。また、大豆入りの握り飯が関東大震災の被災地全域で共通して提供されていたとするものではありません。
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